時は戦国乱世、激しい争いは血を分けた親子兄弟であろうと関係なく繰り広げられ、まさに血のりが乾く暇もなかったと言います。
心ならずも肉親を討たねばならない悲劇は、後に中国地方の覇者となった毛利元就(もうり もとなり)も味わっており、生き延びるためとは言え、辛い決断であったことでしょう。
今回は兄の手で討たれた悲劇の戦国武将・相合元網(あいおう もとつな)のエピソードを紹介したいと思います。
今義経と称された若武者ぶり
相合元網は安芸国(現:広島県西部)の領主・毛利弘元(ひろもと)の三男として誕生。兄の毛利元就たちとは別腹(元就たちは正室の子)で、母・相合大方(おおかた。御方)の実家を継いで(あるいは相合の地を与えられ)相合と称します。
別名は少輔三郎(しょうゆう さぶろう)、または相合四郎(しろう)と言うそうですが、少輔とは官位(ランク)であって官職(ジョブ)が併記されていない(※)ため、恐らく毛利家中で勝手に(朝廷の許可を得ず)与えた官途名(私称)でしょう。
(※)通常は治部少輔(治部が官職)などと官職+官位で称します。もちろん併記されていても官途名であることが多々あります。
また、三男なのに相合四郎とは、継いだ先の相合家ではすでに三人の子(男女は不明)がいて、四番目の子として入った元網が男性であるから四郎と呼ばれたのかも知れません。
そんな元網は今義経(いまよしつね)とも呼ばれていたそうで、かの源平合戦(平安時代末期)の英雄・源義経(みなもとの よしつね)の再来を意味しますが、いったい何が共通していたのでしょうか。
義経と言えば(1)天才的な軍略(2)軍記物語で謳われる美貌(3)悲劇的な最期……などで有名ですが、(1)はこれといった実戦経験も見られず、(3)も元綱がまだ生きているため、恐らく(2)の美貌で評判だったものと考えられます。
(実際の義経はそれほど美男子でもなかったそうですが、こういうものはイメージが大事なのでしょう)
「おぉ、三郎様……九郎御曹司(義経)もかくやとばかりと若武者ぶりにございますな!」
ゆくゆくは立派に成長し、兄・元就の覇業を助けて大活躍……そんな将来を嘱望されながら、その兄に討たれて(3)も満たしてしまったのは、皮肉と言うよりありませんでした。