徳川亡き後「第4の幕府」を狙った?幕末の薩摩藩主・島津忠義の野望と英断

時は江戸時代末期の慶応3年(1867年)、大政奉還(政権を朝廷に返上すること)によって二世紀半余の天下に終止符を打った徳川幕府

「かくして頼朝公の鎌倉開府より700年以上にわたる『武士の世』が終わりを告げ、新政府による近代国家への歩みが始まったのであった……」

歴史の結果を知っている現代の私たちは、当然のようにそう考え、当時の人々もそう考えていただろうと考えがちです。

しかし、中には「徳川幕府が倒れても、また別の幕府が始まるだけ=武士の世が終わる訳ではない」と考えていた者も少なからずいたと言います。

今回はそんな一人、最後の薩摩藩主・島津忠義(しまづ ただよし)のエピソードを紹介。果たしてどんなビジョンを描いていたのでしょうか。

薩摩藩主の家督を継承

島津忠義は天保11年(1840年)4月21日、島津分家の当主・島津久光(ひさみつ)の長男として誕生します。幼名は壮之助(そうのすけ)、元服して又次郎(またじろう)、最初の諱は忠徳(ただのり)と称しました。

19歳となった安政5年(1858年)、忠徳は主君に当たる伯父・島津斉彬(なりあきら)の子・島津哲丸(てつまる。2歳)を後見するため斉彬の養子となります(その直後、斉彬は7月16日に死去)。

しかし哲丸はまだ幼く、また病弱であったためか家督はそのまま忠徳が継ぐこととなり、同年12月28日、正式に家督を継いだ忠徳は第14代将軍・徳川家茂(とくがわ いえもち)から一文字を授かって島津茂久(もちひさ)と改名しました。

※ちなみに、哲丸はその直後の安政6年(1859年)1月2日に死去。もはや用済みとばかりに消されてしまったのでしょうか。

こうして薩摩藩主となった茂久でしたが、まだ若いこともあって、政治の実権は養祖父の島津斉興(なりおき)や父の久光らが握っていたと言います。

4ページ目 戊辰戦争で海陸軍総督を拝命するも……

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