「日本実業界の父」渋沢栄一(しぶさわ えいいち)の生涯を描いた大河ドラマ「青天を衝け」。
尊皇攘夷の志に討幕を図る過激派志士から心機一転、後に幕府将軍となる一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ。徳川慶喜)に仕えることとなった栄一は、幕府の財政問題を解決するためパリへと渡るのですが、その旅先で栗本鋤雲(くりもと じょうん)と出会います。
さて、この栗本鋤雲とはいったい何者なのでしょうか。
順調な人生から一転……
栗本鋤雲は文政5年(1822年)3月10日、江戸幕府の典医・喜多村槐園(きたむら かいえん)の三男として生まれました。幼名は哲三(てつぞう)、成長してから通称を瀬兵衛(せへゑ)、諱を鯤(こん)と言ったそうです。
幼いころから利発だったようで、安積艮斎(あさか ごんさい)に入門して学才を顕わし、22歳となった天保14年(1843年)には幕府直営の昌平坂(しょうへいざか)学問所に入学しました。
順調に医学を修め続けた瀬兵衛は嘉永元年(1848年)、27歳を迎えて幕府の奥医師を務める栗本家の養子に入り、将軍はじめその家族の診察に当たります。
ここまでは順風満帆と言える瀬兵衛の人生ですが、安政5年(1858年)に蝦夷地・箱館(現:北海道函館市)へと左遷されてしまったのです。
瀬兵衛が左遷された理由には諸説あり、医師としてあるまじき禁忌を犯したとも、トントン拍子の出世を妬んだ先輩・同僚らの讒言(ざんげん。他人を陥れるための密告)とも言われています。