さらさら流れる「春の小川」はいずこ?東京五輪を機に地下に埋設され渋谷の地下でひっそりと【前編】

高野晃彰

桜の花も咲き始め暖かい日が続くと、なんとなく頭の中に流れるのが、「春の小川はさらさらいくよ」のメロディー。

そう、その名も「春の小川」ですね。清流の岸に咲く花々、小さな魚の群れ……などの歌詞に、のどかな春の日の散歩道を思い浮かべる人は多いでしょう。

ところで、この「春の小川」、実は東京都渋谷区を流れていたのはご存じでしょうか。

そして、1964年の東京オリンピックを機に、地下に埋設され暗渠(あんきょ)となりました。

春の日差しにきらめく清流から、暗い地下をひっそりと流れる川へ……そんな、「春の小川」にまつわるストーリーをご紹介しましょう。

「春の小川」とは

「春の 小川は さらさら いくよ」で始まる、「春の小川」といえば、誰でも知っている唱歌でしょう。

この曲は、長野県出身の国文学者・高野辰之博士が作詞しました。現在でも学校や合唱グループなどでよく歌われています。

この「春の小川」は、1912年(大正元年)に発表され、発表以降、何度か歌詞が改変されているのです。

そのため、100年以上も歌われ続けている有名な唱歌でありながら、世代によって覚えている歌詞が異なる……ということもあります。

春の日の小川沿いの散歩から生まれた

「春の小川」の作詞者・高野博士は、明治42年(1909)から、現在の東京都渋谷区代々木界隈に住んでいました。

当時、その土地には「河骨川(こうほねかわ)」という小川が流れていました。そして、岸辺には「こうほね」という黄色くかわいらしい花が咲くことから、河骨川と呼ばれるようになったそうです。

河骨川をさらさらと流れゆく水は清らかで、スイスイと泳ぐメダカの群れを眺めることができ、春の訪れとともに岸辺にはレンゲやスミレなどが咲き誇る、とてものどかな風景の場所だったそうです。

高野博士は、この周辺の景色を愛し、しばし河骨川のほとりで散策を楽しんでいたとか。

そんな春の日の散策からインスピレーションを得て、「春の小川」が生まれた……と伝わっています。

(高野博士が長野県中野市出身であることから、「春の小川」は長野県内の川では?という説もあるようです)

3ページ目 地下に追いやられてしまった春の小川

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