織田信長が怖れ、徳川家康を一蹴した武田信玄。一般に戦いの天才というイメージが強い信玄だが、それだけで戦国最強軍団を構築できたわけではありません。
ワンマンが多かった戦国時代において、信玄は家臣たちの意見を取り入れる合議制を行った大名でした。後編では、嫡男義信廃嫡事件を契機に家臣団を引き締め、戦国最強軍団に仕上げた信玄のリーダーシップを紹介しましょう。
前編の記事
武田信玄が戦国最強軍団を築けた秘密?それは、家臣の意見を採用する合議制にあった【前編】
織田信長が怖れ、徳川家康を一蹴した武田信玄(たけだしんげん)。一般に戦いの天才というイメージが強い信玄ですが、それだけで戦国最強軍団を構築できたわけではありません。ワンマンが多かった戦国時代に…
嫡男信義の謀反で揺らぐ家臣団
合議制を採用したことで、盤石かと思われた武田家臣団。しかし、1567(永禄10)年、思わぬことで揺るぎが生じてしまいます。それは、嫡男義信の謀反でした。
1560(永禄3)年、桶狭間の戦いで今川義元を討たれた駿河国主今川家は、後を継いだ氏真の代になると、三河の徳川家康の圧力に抗しきれなくなっていました。
こうした状況を見ていた信玄は、駿河侵攻を決意します。しかし、今川義元の娘を正室に迎えていた義信は、妻の実家を攻めることに承服できなかったのです。
ここにおいて、義信は側近の飯富虎昌(信玄重臣で義信傅役)と図り、信玄暗殺を企てました。信玄はこの動きに素早く反応。義信を廃嫡のうえ幽閉し、虎昌ら側近を根こそぎ処断したのでした。
実はこの事件、信玄にとっては憂慮すべきものでした。武田家臣団が、反今川派(信玄派)と親今川派(義信派)に分裂、派閥抗争に発展してしまったのです。
家臣団の分裂こそ、信玄が一番恐れることでした。それ故に、武勇・知略に優れ、将来を期待された嫡男と譜代の重臣を処断したのでした。
義信廃嫡の後、信玄は、生島足島神社において、家臣たちに忠誠を誓わせる起請文を奉納させます。これは、事件で生じた家臣団の動揺を鎮めることと、団結の引き締めを図ったに違いありません。