今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで いふよしもがな
「今となっては、“もう君のことは諦めるよ”と人づてではなく、直接会って伝えたい…」
この胸を締め付けられるような悲しい恋の和歌は、平安時代中期の貴族で歌人の藤原道雅(992年~1054)が、当子内親王(1001~1022)に向けて詠んだものだ。
没落貴族の道雅と皇女である当子内親王。身分の違う2人は深く愛し合っていたが、その身分差によって、永遠に仲を引き裂かれることとなる。2人が辿った悲しい恋の行方と結末とは…
没落貴族と皇女の許されざる恋
藤原道雅は藤原道隆を祖とする藤原北家中関白家に生まれた。あの『枕草子』で有名な清少納言が仕えた中宮定子は道雅の叔母にあたる。道隆は自分の娘である定子には最高の教育をと考えたように、孫である道雅も大変可愛がって育てたという。
道隆が関白にまで昇進し絶大な権力を誇ったことで中関白家は栄華を極めたが、995年に道隆が病に倒れた。
ここから中関白家の栄華が陰りはじめる。道雅の父伊周が花山法皇に自分の女性を取られたと勘違いし、法皇に対し弓を放つ事件を起こしてしまう。これにより伊周は左遷。最大の権力者であった道雅は既に亡く、道雅は実家が没落していく中で育つ。
一方の当子内親王は三条天皇の第1皇女で、伊勢神宮の斎王(天皇に代わって伊勢神宮に仕える役職で皇族女性から選ばれる)を務めた高貴な身分。道雅と恋に落ちたのは、斎王を退下し京都に戻った後のことだった。
決して許されることのない恋だったが、内親王の乳母によるサポートもあり、2人は愛を育んでいった。どのような逢瀬を重ねたかは知る由もないが、実家の没落により先行きの暗い道雅にとって、当子内親王が大きな光であったことは想像に難くない。