豊臣秀吉子飼いの武将、加藤清正には虎狩りをしたことが広く知れ渡っています。
これは文禄・慶長の役の際、清正が虎を狩った逸話が残っていることと清正自身の知名度が影響しているかと思われます。
しかし、実際には清正の他にも虎を狩った武将が何人かいました。今回は虎狩りをしたことが残っている恐れしらずな武将たちをご紹介します。
虎を狩った3人の黒田武士!
まず最初のご紹介は黒田長政とその家臣、菅正利(かん-まさとし)と林直利(はやし-なおとし)です。
長政は日本と明の戦いが膠着し、休戦期に入った文禄3年(1594)の頃に家臣たちを連れて虎狩りへ向かいました。すると、そこへ一匹の虎が距離を詰めてじりじりと迫ってきました。
長政は鉄砲を構えてはいますが、撃とうとはせずに待っている状態。虎が近距離まで迫り、家臣たちが「殿が鉄砲を撃たない」と慌てていると長政は鉄砲を放ち、虎を撃ち取りました。
その後、二匹目の虎が現れ赤い具足を身にまとっていた菅正利の元へ向かいました。
正利は新当流と新陰流の2つの流派を学んだ剣の達人で剣豪としても知られる人物です。そんな人物に虎が敵うはずもなく、討ち取られました。
また、林直利は槍で虎を仕留めたことで、その槍には長政から「虎衝(とらつき)」の名を与えられました。
島津義弘や鍋島直茂も虎を狩っていた!
また、九州の武将である島津義弘も虎狩りを行っていました。
義弘は虎狩りを行った際に2人の家臣を失う損害を出しましたが、2匹の虎を仕留めることに成功し、秀吉に虎の肉や腸などを塩漬けにして送っています。
さらに島津勢が虎狩りをしている様子の屏風絵も残っています。
加えて、鍋島直茂と亀井玆矩(かめい-これのり)も義弘と同様に虎狩りを行いました。この3人に関しては豊臣秀吉から送られた礼状が残っており、虎の頭や肉を秀吉宛に送ったことが分かっています。
玆矩は鉄砲で虎を仕留めており、その様子を残した絵も残っています。