軟禁され罪人として崩御。天狗となって朝廷を呪った「崇徳天皇」の恨み【後編】

一之瀬 陽平

日本三代怨霊に数えられる「崇徳天皇(すとく)」は、悲運の中で生涯を閉じた天皇として知られている。今回は【中編】に続き、配流された末に罪人として命を落とした崇徳天皇の生涯をご紹介する。

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軟禁され罪人として崩御。天狗となって朝廷を呪った「崇徳天皇」の恨み【前編】

平安時代。第75代天皇に即位した「崇徳天皇(すとく)」は、日本の三大怨霊に数えられている。その背景には不幸な生い立ちと生涯が深く関係している。今回は、家督争いの末に配流され、非業の内に崩御した…

軟禁され罪人として崩御。天狗となって朝廷を呪った「崇徳天皇」の恨み【中編】

日本三代怨霊に数えられる「崇徳天皇(すとく)」は、歴代の天皇の中でも不運な生涯を送り、恨みを抱えこの世を去ったという。[caption id="attachment_138044" align…

保元の乱

1156年7月。後白河天皇派の夜襲によって開戦。戦力は後白河天皇派が圧倒的に有利であったが、崇徳上皇派は寡兵ながら善戦する。しかし、結果的には敗北し、崇徳上皇は出家した後に投降、頼長は戦死した。

戦に勝利した後白河天皇は崇徳上皇の配流を決定。天皇や上皇の配流は約400年ぶりの事であり、後白河天皇派の風説や威圧によって半ば強制的に挙兵させられた崇徳上皇としては屈辱的な結末となった

讃岐国での軟禁生活

讃岐国(現在の香川県)に配流された崇徳上皇に付き従ったのは、寵妃である兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね)と僅かな女官だけだったという。

讃岐で軟禁生活となった崇徳上皇は、仏教教典の写本作りに没頭した。完成した写本を朝廷に送ったところ、後白河天皇は崇徳上皇の呪いを恐れて受け取りを拒否。

1164年。配流の地にて46歳で崩御。二度と京の地を踏むことはなかった。朝廷は崇徳上皇の死を無視し、具体的な措置を講じることはなく、あくまでも罪人として扱った。

3ページ目 崇徳上皇の天狗伝説

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