現在の鳥取県鳥取市に築城された鳥取城。建物は現存せず、天守や堀、石垣が残る鳥取城は、戦国時代に凄惨な兵糧攻めにあった城として知られている。
今回は、羽柴秀吉によって行われ、多くの餓死者を出した鳥取城攻略戦の全貌をご紹介する。
鳥取城とは
鳥取城が築城された因幡国は、室町時代から山名氏が守護を努めたが、支配基盤は他国に比べ脆弱であり争いが絶えない土地だった。
戦国時代には鳥取城を巡る主導権は目まぐるしく入れ替わり、1573年に因幡山名家の家督を継承した山名豊国(やまなとよくに)が城主となる。
しかし、当時の中国地方は毛利氏の勢力が絶大で、毛利氏と敵対していた豊国は結果的に降伏した。
戦までの経緯
1580年。室町幕府15代将軍・足利義昭の擁立に成功し、京都を中心に勢力を拡大していた尾張国の織田信長は中国攻めを本格化。毛利氏と対立した。信長の命を受けた羽柴秀吉は鳥取城を攻める。
城主である豊国は約3ヶ月の籠城戦を展開するも、家臣の反対を押し切って単身で秀吉に降伏。そのまま秀吉に臣従し、自身の城であった鳥取城攻めにも従軍している。
主を失った鳥取城は吉川元春(きっかわもとはる、毛利氏12代当主・毛利元就の次男)に救援を要請。何度か大将を入れ替えた末の1581年、毛利氏の重臣である吉川経家(きっかわつねいえ)が城主となった。