日本最初の戦国大名。戦乱の世に生きた「北条早雲」の生涯【後編】

一之瀬 陽平

15世紀末から始まったとされる戦国の世。戦国大名の先駆けとされる「北条早雲(ほうじょうそううん)」は、伊豆を平定すると関東へ進出した。

【後編】では、早雲の晩年の活動をご紹介する。

これまでの記事

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日本最初の戦国大名。戦乱の世に生きた「北条早雲」の生涯【中編】

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相模国平定

小田原城を落とした早雲は、扇谷上杉家の当主「上杉朝良(うえすぎともよし)」から小田原城を譲り受け、代わりに軍事支援を約束する。

立川原の戦い

扇谷上杉家と対立していた山内上杉家は、当主「上杉顕定(うえすぎ あきさだ)」を中心に朝良・早雲方を牽制。1504年。両軍は武蔵国立川原で合戦となった。戦は扇谷上杉家方の勝利に終わるも、敗戦後に勢いを盛り返した山内上杉家によって朝良は事実上の隠居に追い込まれる。

上杉家との敵対

早雲は上杉家の同族争いの最中にも、扇谷上杉家の軍事支援を名目に相模国の侵攻を進めていた。1510年頃になると扇谷上杉家から離反する動きを見せ始める。朝良は敵対していた山内上杉家と和解し、早雲と対立した。

相模三浦氏の滅亡

早雲は上杉家との一進一退の衝突を繰り返すが、扇谷上杉家傘下であり相模の名門である三浦氏によって徐々に劣勢に立たされる。一時的な和睦によって窮地を切り抜け、体制を立て直し三浦氏攻略のために再度出兵。

1516年。三浦氏当主「三浦義同(みうらよしあつ)」「義意(よしおき)」父子は、激戦の末に討ち死。名族三浦氏は滅び、早雲は相模全域平定を成し遂げた

晩年

1519年に伊豆の「韮山城(にらやまじょう)」で死去。享年64。家督は1487年に誕生した嫡男「氏綱(うじつな)」が継いだ。

早雲は積極的に自身の領国支配を目指した武将であり、最初期の戦国大名と考えられている。一方、生涯に渡って今川氏親の家臣という立場も守ったとされ、北条氏が戦国大名として独立するのは2代目の氏綱の時代である。

氏綱は1523年頃から「北条」姓を名乗り、北条氏は早雲から5代に渡って全盛期を迎え、関東支配を盤石なものとした。

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