デマが奪った二人の命…無実の疑いで自決に追い込まれた悲劇の皇女・稚足姫

昔から「火のない所に煙は立たぬ」とはよく言ったもので、一度噂が立ってしまうと、たとえ事実無根であっても「何か(根拠となる事実)はあるに違いない」などと疑われることがよくあります。

それでも誤解がとければまだいいのですが、中には取り返しのつかない事態に発展してしまうことが間々あるもので、歴史の中でも少なからぬ悲劇が生み出されてきました。

今回は古代日本の歴史書『日本書紀』から、阿閉国見(あえの くにみ)のデマが惹き起こした二人の悲劇を紹介したいと思います。

「皇女をけがしまつりて……」安易に流したデマの代償

阿閉国見は第3代・孝元(こうげん)天皇の子孫と伝えられる豪族で、姓は臣(おみ)、名は磯特牛(しことい)。

時は雄略天皇3年(西暦459年)、国見は廬城部連武彦(いおきべの むらじ たけひこ)が「斎宮(いつきのみや)を手籠めにして、子を孕(はら)ましめた」というデマを流します。

「武彦、皇女をけがしまつりて任身(はらま)しめたり」

斎宮とは世の平和を祈る聖職者で、天皇陛下の皇女(ひめみこ)から選ばれて伊勢の神宮へ下向するのがならわし。この時は、第21代・雄略(ゆうりゃく)天皇の娘である稚足姫(わかたらしひめ)皇女が務めていました。

一方の武彦は皇族の身辺を世話する湯人(ゆえ)を務めており、湯を使っている最中に二人きりで、あんなことやこんなことを……それが単なる国見のゴシップ趣味によるものか、あるいは武彦への嫉妬なのかは記録がありません。

ともあれ君臣の身分をわきまえず、ましてや神に仕える斎宮がそのような不始末をしでかしては一大事……雄略天皇はさっそく使者を出して稚足姫を問いただします。

「わたくしは存じませぬ(妾は識らず)」

神誓(か)けて潔白にございます。そう断言したものの、父帝は決してお疑いを晴らされまい……意を決した稚足姫は、神鏡(あやしきかがみ)を抱いて自らを生き埋めに、命を絶ってしまいました。

「五十鈴川(いすゞのかは)の上(ほとり)に詣(い)でまして、人の行(あり)かぬところを伺ひて、鏡を埋(うず)みて経(わな)き死ぬ」

3ページ目 皇女が本当に潔白かどうか、確かめよ

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