今川・織田・豊臣に臣従するという試練を乗り越えて、江戸幕府を開府した徳川家康。
しかし、そこには先の天下人・豊臣家の脅威がありました。家康は、豊臣家を滅ぼすとともに、秀吉の墓と神社を破壊し、京都からその痕跡を消し去ります。
何が、家康をそんな行動に駆り立てたのでしょうか。
「豊国乃大明神」という神になった豊臣秀吉
1598(慶長3)年8月18日、天下人・豊臣秀吉は、伏見城で63歳の生涯を閉じました。
その後、秀吉の遺骸は、京都の方広寺東方にある阿弥陀ヶ嶽山頂に葬られ、中腹には秀吉を祀る豊国神社が建立されたのです。
秀吉は朝廷から「豊国乃大明神」の神号が与えられ、神となりました。
関ケ原合戦で豊臣家の軍事力を削る
秀吉の死後、豊臣家の家督は秀頼が継ぎ、五大老・五奉行が秀頼を補佐する体制が合意されます。
しかし、五大老の筆頭である徳川家康は、この重臣合議制を公然と無視し、大名間の婚姻関係を認めるなど、諸大名に対し影響力を強めていきました。
これに対し、危惧を抱いた石田三成らが家康に宣戦を布告、1600(慶長5)年に関ケ原合戦が勃発します。
勝利を得た家康は、1603(慶長8)年に征夷大将軍に任ぜられ、以降260年にわたる江戸幕府を開きました。
一方、豊臣秀頼は関ケ原合戦の戦後処理により、摂津・河内・和泉の直轄地のみを領する一大名に没落していまいました。豊臣家は、所領を220万石から85万石に減封されてしまったのです。
大名の軍事力を考える時、一般に1万石に付き500人の兵隊を動員できるとされます。豊臣家は総勢11万の軍勢から、わずか4万の軍勢しか動員できないことになってしまいました。
家康は関ケ原の戦いにより、豊臣家の軍事的脅威を大幅に減らすことに成功したのです。