1600年7月22日の丹後・田辺城は、まさに風前の灯火でした。
城を預かるのは67歳の細川幽斎。
半世紀かけて積み上げてきたすべての資産をフル活用し、彼は芸術作品とも言うべき戦いの棋譜を残すことになるのです。
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戦国時代、67歳の武将・細川幽斎が遺した芸術作品とも言うべき「田辺城の戦い」【前編】
京からの使者
開戦から5日経った7月27日。
落城が近い田辺城に、八条宮智仁(としひと)親王の使者が訪れました。朝廷からの使者ということで包囲を抜け、幽斎に面会した使者は彼に降伏を勧めます。
幽斎は多芸な人物でしたが、特に和歌においては「古今伝授」という秘伝を当時ただ一人受け継いでいた人物でした。幽斎が命を落とすようなことがあれば、その秘伝も失われてしまう。
幽斎から和歌の指導を受けていた八条宮は、それを危惧して動いたのです。
「お気持ちは嬉しいのですが、私も武士です。ここで降伏することなどできません。しかしこの城にある貴重な品々が城と共に焼け落ちてしまうのは忍びない」
幽斎はあくまで降伏を拒否。秘蔵の書物や美術品を使者に託し、形見として八条宮をはじめとした各方面に譲り渡しました。
そして辞世のつもりで歌を詠んだのです。
「古へも 今もかはらぬ 世の中に 心のたねを のこすことの葉」
天皇、動く
幽斎の決意を知った八条宮は、自分には手に負えないと判断して兄である後陽成天皇に相談します。
「幽斎が死ねば、文化的な損失は計り知れない」
後陽成天皇もまた幽斎を高く評価しており、幽斎と親しかった公家たちを通じて西軍の首脳に対して幽斎を助命するよう交渉を求めました。西軍首脳も天皇の意向とあれば無視するわけにはいきません。朝廷と西軍首脳の間で条件交渉が始まります。
こうなると、困るのは現場の皆さん。
交渉が成立する可能性がある限り、これ以上攻撃をして幽斎を死なせるわけにはいきません。一方で、交渉が決裂すれば攻撃を再開しなければならないため、包囲を解くわけにもいきません。
かくして1万5千の西軍は田辺城を包囲したまま、空しく時を過ごすことになりました。
最終的に、朝廷と西軍首脳の間で
「幽斎が城を明け渡せば命は助ける」
ということで合意が取れて、その旨が幽斎にも伝えられました。
が、幽斎はこれを拒否。
先述の通り、ガラシャが死んだ以上、降伏は社会的な死を意味します。たとえ朝廷の斡旋があったとしても、幽斎としては受け入れるわけにはいかなかったのです。