1600年7月22日の丹後・田辺城は、まさに風前の灯火でした。
城を預かるのは67歳の細川幽斎。
半世紀かけて積み上げてきたすべての資産をフル活用し、彼は芸術作品とも言うべき戦いの棋譜を残すことになるのです。
これまでの記事はこちらから
戦国時代、67歳の武将・細川幽斎が遺した芸術作品とも言うべき「田辺城の戦い」【前編】
戦国時代、67歳の武将・細川幽斎が遺した芸術作品とも言うべき「田辺城の戦い」【中編】
幽斎の狙い
かくして500対1万5千という、並みの武将であれば
「名誉の戦死か、屈辱の生か」
という二者択一を強いられる状況で、幽斎は命と名誉の両方を守ることに成功しました。それどころか日本史上唯一の
「天皇が勅命を出してまで助けた男」
という称号を手にし、名声はむしろ高まったとさえ言えるでしょう。そしてさらに、1万5千の敵を足止めしたという戦功も挙げています。
では、この一連の出来事はどこまでが計算ずくだったのでしょうか?推測でしかありませんが
「数日持ちこたえれば誰かが自分の助命のために動いてくれるはず」
くらいのことは考えていたと思います。
そして実際に交渉が始まった後は、誰がどんな風に動いているか、西軍の反応はどんなものか、東西両軍の動きはどうなっているか等に気を配りながら、交渉を引き延ばしたり有利な条件を引き出したりして、結果的にこれ以上ないくらいの成果にたどり着きました。
(包囲は続いていたものの交渉のために使者は出入りしていましたから、情報収集は可能だったと考えられます)
まさか個人を救うために勅命が出るなど、幽斎も想像できなかったでしょう。しかし出た以上は最大限に活用するという、幽斎のしたたかさが見て取れます。
古今伝授だけではなかった成功要因
ここまでうまく行った要因に、幽斎が古今伝授の継承者であったという文化的価値があったことは間違いありません。が、それだけで通用するほど戦国時代は甘いものではありません。
実力という裏付けがあればこそ、それは機能したのです。具体的な要因をいくつか挙げていきますと
戦術指揮能力
これがなければ、交渉の余地なく最初の攻撃で城が攻め落とされてしまいます。
戦略眼
西軍の丹後侵攻を知った時点で田辺城に兵力を集中するという判断を下しました。それがあったからこそ、戦術指揮能力を発揮する余地も生まれました。さらには敵兵を釘付けにすることの意義を見出した点などから、単に城を守るという視点だけでなく、戦いの全局を見据えた判断を下していたことが分かります。
俯瞰する力と交渉力(政治力)
田辺城の戦いで得られた結果は、幽斎が玉砕するつもりであると周囲が思ったからこそ成功したものでした。もしも自分から
「私を殺したら古今伝授が失われるぞ! 文化的な損失だぞ!」
と言い出していたら
「なんだかんだで命が惜しいんですね」
と足元を見られかねません。
たびたびの降伏拒否も、それじゃあ勝手にしてくださいと言われてしまえばそこで終わってしまうので、絶妙なさじ加減が必要になります。
自身の価値と、それが周囲にどう評価されているかを正確に把握していたからこそ可能なものだったのでしょう。