女性として生まれながら、ゆえあって男性として生きることを余儀なくされる……歴史を紐解くと、そんな「男装の麗人」エピソードが散見されます。
彼女たちは、その多くが本当は女性として生きたかったのに仕方なく男装しており、目的が果たされると女性に戻っているのですが、中には自らの意思で「男性として生きる」ことを選択した者もいました。
今回はそんな一人、幕末から明治時代にかけて活躍した「男装の麗人」高場乱(たかば おさむ)のエピソードを紹介したいと思います。
世の「乱」れを「おさむ」る決意
高場「乱」とは名前からして凄いですが、乱という漢字には、物事が「みだれる」という意味に加え、その乱れを「おさめる」という意味もあり、彼女が元服に際して「世の乱れをおさめる」一助たらんとする決意表明が込められていたそうです。
さて、そんな乱は天保二1831年10月8日、筑前国博多の眼科医・高場正山(たかば せいざん)の末娘として誕生。「養命(ようめい)」という男性名がつけられます。
「父上、これは男の名前ではございませぬか?」
高場家には既に高場義一(よしかず、ぎいち)という嫡男がおり、とりあえず後継ぎには困っていませんでしたが、正山には考えがありました。
「わしは高場流眼科術を、この養命に継がせようと思っておる。そなたは更に研鑽を重ね、立身出世を果たすのじゃ」
「はぁ……」
かくして男児として育てられることになった養命は、11歳となった天保十二1841年に元服。名を小刀(こたち)と改名したところ、福岡藩主に同名の親族がいたため、遠慮して再び改名することに。
そこで「絶対誰とも被らないであろう名前」として「乱」の字を選んだのですが、数え11歳で世の乱れを感じ取り、それを「誰か任せにせず、自分が何とかする、その力になろう」と決意する覚悟は、まさしく武士のものでした。