徳川家康に天下を取らせた戦国武将・藤堂高虎のフォロワーシップ【前編】

友斉照仁

一兵卒からスタートし、主君を幾度も変えて、最終的には32万石の大名にまで昇りつめた、戦国時代の武将・藤堂高虎(とうどうたかとら)。今回は「フォロワーシップ」という観点から、彼がなぜ大出世を遂げることができたのかを考えていきたいと思います。

藤堂高虎ってだれ? という方、ちょっと復習しておきたいなという方は、こちらにその生涯をまとめてありますので、ぜひお読みください。

主君を次々と変えた変節漢?身長190cmを超す規格外の巨漢武将・藤堂高虎【前編】

幕末の動乱が最高潮に達していた1868年1月。京都近郊で、江戸幕府軍1万5千と明治政府軍5千が激突しました。いわゆる鳥羽伏見の戦いです。数の上では優位にあった幕府軍ですが、結果は惨敗。敗因は色…

主君を次々と変えた変節漢?身長190cmを超す規格外の巨漢武将・藤堂高虎【後編】

幕末の動乱が最高潮に達していた1868年1月。京都近郊で、江戸幕府軍1万5千と明治政府軍5千が激突しました。いわゆる鳥羽伏見の戦いです。数の上では優位にあった幕府軍ですが、結果は惨敗。敗因は色…

高虎は最終的に徳川家康を主に選び、天下を取った家康によって大大名に引き立てられます。

これは勝ち馬に乗ったと見ることもできますが、見方を変えれば高虎がいたから、家康は天下を取ることができたと言えるのではないか。今回はそのような観点から、高虎と家康の関係を追いかけていきたいと思います。

高虎、家康を知る

藤堂高虎と徳川家康の出会いは、1570年夏のことでした。両者は敵味方に分かれ、近江(滋賀県)の姉川を挟んで対峙します。浅井・朝倉軍と織田・徳川軍が戦った、姉川の戦いです。

この戦いでは浅井軍と織田軍、朝倉軍と徳川軍がそれぞれ戦闘状態に突入。最終的には徳川軍が朝倉軍を退却に追い込み、浅井軍に襲い掛かったことがきっかけとなって、織田・徳川軍の勝利となります。

この時、高虎は14歳。今日が初陣となる、浅井軍の一兵卒でした。一方の家康は36歳。言うまでもなく、徳川軍の総大将です。

高虎は当然ながら家康の存在を認識し、恐るべき敵将と記憶に留めたことでしょう。

では家康はどうだったか。

高虎は、この戦いでたしかに活躍しました。とはいえ両軍合わせて2万人以上が入り乱れる戦場で、一兵卒に過ぎない高虎を認識していたかどうか。

この時は、高虎が家康を一方的に知ったものと思われます。

3ページ目 家康、高虎を知る

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