古来「清濁併せ吞む」とはよく言ったもので、世の中キレイゴトや正論ばかりでは上手く渡っていけないものです。
しかし、世の中そんなに器用な人間ばかりではなく、むしろ不器用で損ばかりしている人の方が多いのではないでしょうか。
今回紹介する戦国武将・曲淵勝左衛門吉景(まがりぶち しょうざゑもんよしかげ)もそんな一人で、その苗字とは違い?まっすぐ過ぎてトラブルばかり起こしていたようです。
皆さんはここまで極端ではないと思いますが、「戦国時代にも、こんなヤツがいたんだな」と思いを寄せてみるのも一興でしょう。
槍一本で武功を上げて、草履取りから出世するも……
曲淵吉景は永正十五1518年、甲斐国中巨摩郡曲淵(現:山梨県昭和町)の生まれで幼名は鳥若(とりわか)。若い頃から板垣信方(いたがき のぶかた)に草履取りとして仕え、元服して勝左衛門(※)と名乗りました。
(※)ほか庄左衛門、荘左衛門などと書かれていることから、読みが「しょうざゑもん」と判ります。
信方は甲斐国の戦国大名・武田信虎(たけだ のぶとら)の家老で、信虎の嫡男である武田晴信(はるのぶ。後の信玄公)の傅役(守役)を務めています。
この頃、甲斐国を統一した信虎はしきりに信濃国(現:長野県)へ侵攻しており、勝左衛門も信方に従って各地を転戦しました。
同輩の広瀬郷左衛門(ひろせ ごうざゑもん。景房)や三科伝右衛門(みしな でんゑもん。形幸)と共に先鋒を務めて武功を競い、足軽大将として板垣家中の筆頭に昇りつめていきます。
天文十1541年に晴信が父・信虎を追放すると、信方は両職(武田家の筆頭家老)となっていますが、勝左衛門は主君の威光を嵩に着るようなこともなく、ひたすら忠義に励んだそうです。
しかし、曲がったことの許せない性格だったようで、
「……白黒はっきりつけようじゃねぇか!」
世の不条理に片っ端から立ち向かおうと、起こした訴訟は『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』に記録されている限りで75回。どんなに正義の動機であろうと、正直トラブルメーカー以外の何物でもありません。
「……またお前か……」
訴訟を取り裁く奉行たちも、いい加減うんざりしたでしょうが、凄まじいのはそれだけではありません。