西日本では稲を食べる害虫、ウンカのことを実盛虫と呼ぶことがあります。由来となったのは平安時代の武将、斎藤実盛(さいとう-さねもり)が合戦時に起こしたアクシデントにありました。
今回はなぜ実盛虫と呼ばれることになったのかを由来となった合戦前の経過と共に紹介します。
源氏から平氏へと転身
実盛は平治の乱まで源氏に仕えていましたが、乱においての源氏の敗北と共に落ち延び、その後平氏に仕えます。平氏では平清盛の嫡孫、平維盛(たいらの-これもり)の後見役という重要なポストにつきました。
そのこともあってか、治承4年(1180)に源頼朝が平氏打倒のために挙兵しても、源氏には味方しませんでした。
そして、実盛は維盛と共に北陸へ進軍し、北陸に勢力を築き上げた木曽義仲と対峙します。
最初は怒涛の勢いで義仲を追い詰めていきますが、治承2年(1185)の倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いでの敗走を機に形勢逆転。
北陸方面の平氏は壊滅に等しい状態となり、維盛は京都方面に撤退しました。
実盛、最後の時
しかし、維盛の撤退を阻止するため義仲軍が追撃を行います。実盛は維盛を守備すべく加賀国の篠原にて義仲軍を迎え撃ちました(篠原の戦い)。
この戦いの最中、実盛は乗っていた馬が稲に足を取られてしまったため、落馬してしまいます。その隙をつかれて義仲軍の武将、手塚光盛に討ち取られました。
実盛はこのような最後となった恨みから稲を食い荒らす虫となったといわれています。