前回のあらすじ
時は平安末期の治承四1180年、源頼朝(みなもとの よりとも)と共に平家討伐の兵を挙げた北条義時(ほうじょう よしとき)は、苦境を乗り越えて勢力を築き上げ、富士川の合戦では平維盛(たいらの これもり)率いる軍勢の撃退に成功します。
勝利の勢いで一気に京都へ進撃したかった頼朝に対して、朝廷と距離をおいた武士の別天地を夢見る御家人たちは「坂東の勢力基盤を固めるべき」と鎌倉への帰還を促します。
その意見に従った頼朝の決定が、後に「武士の世」を築く上で重要なターニングポイントとなるのでした。
前回の記事
源頼朝の遺志を受け継ぎ武士の世を実現「鎌倉殿の13人」北条義時の生涯を追う【六】
鎌倉に凱旋した頼朝、宿敵・大庭景親を処刑
さて、晴れて鎌倉に凱旋した義時たち一行の前に、かつて石橋山の合戦(8月23日)でさんざんに頼朝を苦しめた強敵・大庭平三郎景親(おおば へいざぶろう かげちか)の姿がありました。
石橋山で頼朝たちを取り逃がした後、あれよあれよと言う間に膨れ上がった大軍になすすべなく、山岳部に立て籠もったものの10月23日、ついに頼朝の軍門へ降ったのです。
「その節は我ら一同、誠に世話になったのぅ……」
死地を彷徨ったあの敗北からちょうど2か月、両雄の立場は見事に逆転していました。頼朝は御家人の一人で、景親の兄である懐島平太郎景義(ふところじま へいたろう かげよし)に問いかけます。
「おい、懐島の。お前ェの弟、助けてやろうか……?」
たとえ腹違いとは言え、弟は弟。助けて欲しくない訳はありません……が、ここで「敵」に情けをかける様子を見せれば、今後自分や一族の立場が危うくなりかねません。
「……佐殿にお任せ致しまする」
殺すなとは言えないが、殺せとは言いたくない。こうなったら、頼朝に判断を任せるよりありませんでした。そんな心情を察した頼朝は、景義に命じます。
「そうか……ならばそなたが斬れ」
せめてもの情けなのか、あるいはとんだ悪趣味か……頼朝の下知に、一同は騒然としました。処刑するのは当然としても、何も兄に斬らせることはなかろうに……。
「佐殿。兄は脚が悪く太刀筋が覚束ず、討ち損じるおそれがございますゆえ、ここはそれがしが……」
名乗り出たのは景義と景親の弟である豊田平次郎景俊(とよだ へいじろうかげとし)。景義は保元の乱(保元元1156年)で敵将・源為朝(みなもとの ためとも)に膝を矢で射られ、騎馬はもちろん歩行もままならぬ状態です。
※保元の乱における景義と景親の武勇伝はこちら。
決死の作戦と兄弟愛!天下一の強弓・源為朝が唯一倒せなかった大庭景義の武勇伝【上】
決死の作戦と兄弟愛!天下一の強弓・源為朝が唯一倒せなかった大庭景義の武勇伝【中】
決死の作戦と兄弟愛!天下一の強弓・源為朝が唯一倒せなかった大庭景義の武勇伝【下】
「……我が命じた通りにせよ」
命令に対して、余計な解釈や代替案など求めておらぬ。ただ従え……そんな頼朝のメッセージを受け取った一同はそれ以上誰も反論することなく、景義は固瀬河(現:神奈川県藤沢市)のほとりで泣く泣く景親を処刑。10月26日のことでした。