1600年に勃発した「関ヶ原の戦い」。「西軍」に与しながら合戦中に「東軍」に寝返り徳川方に味方した武将「小早川秀秋(こばやかわひであき)」は、西軍敗北の直接的な原因を作ったともいわれる男だ。
秀秋はその2年後に21歳という若さでなくなっているが、その死因については様々な憶測が流れている。
今回は、関ヶ原の戦いで東軍に寝返った小早川秀秋の短い生涯と、その死因について考察してみたい。
出生から大名へ
秀吉の息子として一時は豊臣家の後継となった小早川秀秋だが、秀吉との血の繋がりはなく養子であった。秀吉と正室の「おね(高台院・北政所)」夫婦は子供に恵まれなかったためと考えられる。
そのため、おねの実兄であり八男の子宝に恵まれていた「木下家定」の五男を養子として迎えた。1582年に生まれたこの男児が、後の小早川秀秋である。
秀吉は秀秋を自身の後継者として考えていたようで、1589年、7歳の秀秋を元服させ、丹波国に10万石の領地を与え91年には豊臣姓を名乗らせている。