文武両道で容姿にも優れ、人望も厚く将来を嘱望されていた飛鳥時代の貴公子・大津皇子(おおつのみこ)。幼い頃から寄り添うように育った姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)。
自由奔放な性格が災いしてか謀反を疑われ自死に追い込まれる大津皇子の悲劇と、母のように愛情を降り注ぎ常にその身を案じていた姉・大伯皇女の深い悲しみ……
お互いに大切な存在同士でありながら、運命に引き裂かれてしまった姉と弟の最期を、万葉集に伝わる二人の和歌も絡めながらご紹介します。
【その1】では、『幼い頃に母を亡くし寄り添うように生きてきた姉と弟のプロフィール』、 【その2】では、『弟・大津皇子に降りかかる運命』などを綴っています。ぜひ、そちらも併せてごらんください。
引き裂かれた姉弟愛…。飛鳥時代に生きた姉・大伯皇女と弟・大津皇子の悲劇 【その1】
わずか24歳という若さで、謀反の罪により自決した悲劇の貴公子・大津皇子(おおつのみこ)。飛鳥時代、文武両道で容姿に優れ自由奔放な性格から多くの人々から信望を集めた人物です。けれども、将来を嘱望…
引き裂かれた姉弟愛…。飛鳥時代に生きた姉・大伯皇女と弟・大津皇子の悲劇 【その2】
文武両道で容姿にも優れ、自由奔放な性格から将来を嘱望されていた飛鳥時代の貴公子・大津皇子(おおつのみこ)。わずか24歳という若さで謀反人として自死に追い込まれてしまいました。その弟に深い愛情を…
父・天武天皇が亡き後に大津皇子の謀反発覚
686年9月、大津皇子にとって偉大な父・天武天皇が崩御。そのわずか3週間後に、人々を震撼させる事件が起きました。大津皇子の謀反が発覚したのです。
【密かに伊勢へ下向した大津皇子〜父の葬送の際、なぜ姉に会いに抜け出したのか〜】
事件について『日本書紀』では、新羅僧・行心(新羅から渡来した僧)が大津に謀反を勧めたとし、『懐風藻』では、親友だった川島皇子(かわしまのみこ)が謀反を密告したと伝えています。
大津が実際に謀反を企てたかどうか、その真相は全くの謎です。
しかし、大きな疑問として残るのは、天武の殯宮儀礼(葬送)という重要な国家行事の発端に、伊勢神宮に斎王として奉仕していた姉・大伯皇女に会いに伊勢へと下向したことです。
なぜ、天皇崩御直後という厳戒態勢の中で、皇太子草壁に次ぐ地位にあるにもかかわらず、大和を抜け出したのか。
鵜野皇后(うのこうごう/持統天皇)ならずとも、大津のこの行動には、誰もが懐疑の目を向けたのは仕方がないことでした。