戦国史上でも人気の高い合戦の一つ、川中島(かわなかじま)の戦いがどういう戦いだったのかを、前回に引き続き、振り返るシリーズです。
これまでの記事
永遠のライバル!武田信玄VS上杉謙信の川中島の戦いを改めて振り返る【その1】
永遠のライバル!武田信玄VS上杉謙信の川中島の戦いを改めて振り返る【その2】
第三次川中島合戦
第二次合戦時に和睦し北信濃の領地を返したにもかかわらず、信玄は越後の積雪をチャンスと見て、その隙に北信濃の侵攻を進めていました。
弘治3年(1557年)4月18日、そうした武田勢の動きを見捨てておけなくなった上杉謙信は、返り討ちのために自ら長野盆地へ出陣。4月から6月までの2か月間をかけて北信濃の武田方の諸城を落とし、武田勢攻略を進めます。
7月には尼飾城を責めますが、武田軍はまたもや決戦を避けて逃げたため、お互い大きな戦果もなく秋には双方引き揚げました。
結局は京での内紛により追放された室町幕府の13代将軍足利義輝が、自身の救済もかけて川中島合戦の仲裁に入り、将軍の計らいという名目で強制的に和睦調停を結んだのでした。
第四次川中島合戦
永禄2年(1559)、将軍足利義輝に拝謁し、関東管領就任を正式に許された上杉謙信は、翌年、大義名分を得て関東平定の足掛かりに小田原へと出陣します。その数は10万にも膨れ上がったそう。
北条氏康は、決戦を避けて小田原城に籠城した。永禄4年(1561年)3月に謙信は小田原城を包囲するも、守りが堅く攻めあぐねていました。
攻められている北条氏康は同盟者の武田信玄に助けを求めます。上杉の本拠地越後に謙信不在ということもあり、これをチャンスと見た武田信玄は早速北信濃に侵攻。川中島の地に海津城を築き、謙信を動揺させます。
こうして起こったのが第四次川中島合戦です。
のんきに小田原攻めをしている場合ではなくなった上杉軍は、とりあえず小田原攻めを中断し、越後へとんぼ返り。同年8月、善光寺を経由して妻女山に布陣し、武田の海津城と対峙しました。
次回へ続く