前回のあらすじ
一緒に手柄を立てたのに(涙)豊臣秀吉の側近「賤ケ岳の七本槍」から洩れてしまった名将たち【上】
時は天正十一1583年4月、織田信長(おだ のぶなが)亡き後、後継者の座をめぐって柴田勝家(しばた かついえ)と羽柴秀吉(はしば ひでよし)が争った賤ケ岳(しずがたけ。現:滋賀県長浜市)の合戦。
この戦いで特に活躍したとされる秀吉子飼いの若武者たち「賤ケ岳の七本槍」ですが、武功を上げたのは彼らだけではなく、その中には文弱の徒というイメージが強い石田三成(いしだ みつなり)など意外なメンバーも登場します。
今回はそんな一人・石川一光(いしかわ かずみつ)のエピソードを紹介したいと思います。
「我が後影を見よかし!」出陣前夜、福島正則に啖呵を切る
石川一光は美濃国の住人・石川光重(みつしげ)の子として生まれ、通称は兵助(へいすけ)。元服して貞友(さだとも)と称し、後に一光と改名します。
秀吉の譜代衆として、長兄の石川光元(みつもと)、次兄の石川貞清(さだきよ)そして末弟の石川一宗(かずむね。通称は長松、後に頼明)ともども、四兄弟そろって幼少の頃から秀吉の馬廻として仕えた子飼いの若武者です。
柴田勝家との雌雄を決する出陣前夜、兵助は秋田助右衛門(あきた すけゑもん)と並んで旗奉行を拝命しますが、大役をやっかんだ市松(いちまつ。福島正則)が因縁をつけます。
「戦場(いくさば)にて旗ばかり振り回したところで敵は倒せぬ……まぁ、槍働きよりも己を目立たせ、御屋形様に手柄顔をする兵助には、誂(あつら)え向きの役目じゃのう(嘲笑)」
「市松、いま何と申したか……聞き捨てならぬ!」
激昂した兵助は脇差に手をかけ、あわや刃傷沙汰に及ぼうとした時、虎之介(とらのすけ。加藤清正)に制止されます。
「市松、兵助、双方よさぬか!明日は柴田との決戦ぞ!このようなところで無駄な血を流すでない!」
……不承不承に引き下がった兵助は「明日(みょうにち)我が後影を見よかし(自分の背中を見るがいい=自分が一番槍の手柄を立てる)!」と啖呵を切ったのでした。