♪一ノ谷の 軍(いくさ)敗れ 討たれし平家の 公達(きんだち)あわれ……♪
※唱歌「青葉の笛」一番より
平家一門として一ノ谷の合戦に出陣するも、16歳の若さで命を散らした悲劇の貴公子・平敦盛(たいらの あつもり)。
少女のようなその美貌と、敦盛を討ち取った坂東武者・熊谷次郎直実(くまがいの じろうなおざね)のむさ苦しい荒夷(あらゑびす。野蛮人)ぶりが好対象となって、読者に強いインパクトを刻みつける源平合戦のハイライトとなっています。
さて、そんな敦盛はどのような生涯を送ったのか、今回紹介したいと思います。
平敦盛のプロフィール
平敦盛は嘉応元1169年生まれ、父の平経盛(つねもり)は平清盛(きよもり)の弟なので、敦盛は清盛の甥に当たります。
利発な子で、幼少の頃から笛の名手として知られ、父から「青葉の笛」を授けられます。これはかつて敦盛の祖父・平忠盛(ただもり)が鳥羽院(第74代・鳥羽天皇)より賜ったという名物ですが、『平家物語』では「小枝(さえだ)」という名前で伝わっています。
後に無官大夫(むかんのたいふ)と呼ばれ、従五位下(じゅごいのげ)でありながら官職を持っていません(※)でしたが、生涯ずっとなかった訳ではなく、6歳になった承安四1174年から10歳になる治承二1178年までの約4年間、若狭守(わかさのかみ。現:福井県西部の国司)に任じられています。
(※)昔の貴族には、ランクを示す位階(いかい)と役割を示す官職があり(まとめて官位と呼びます)、ランクは高くても仕事がない貴族も少なからずいました。ちなみに、官位が五位以上の者を殿上人(てんじょうびと)と言い、内裏への昇殿が許される一人前の貴族と見なされました。
いくら敦盛が利発であっても、流石に6歳~10歳では満足に政治も出来ないでしょうから、実際の任国には代官を派遣していたのでしょうが、若狭守の後はそのまま生涯無官となっています。
平家一門の敦盛であれば、「平家に非(あら)ずんば人に非ず(意訳:平家一門以外は人間じゃない)」とまで言われる権力の絶頂にあった伯父さん(清盛)のコネでどんな官職でも貰えそうなものですが、その理由については謎となっています。
2ページ目 いざ初陣!一ノ谷の合戦で、熊谷次郎直実と一騎打ち!