美女って記録にあるのに!鎌倉時代の女武者・坂額御前が醜女キャラに設定されてしまったのはなぜ?【上】

「まったくあの子は、坂額御前のような顔だねぇ……」

子供の頃、どこかのお転婆な女の子に対して祖母が言ったこのセリフ。「はんがくごぜん」という響きが強く印象に残ったので、後で軽く調べてみたところ、鎌倉時代に活躍した女武者で、男勝り&醜女(しこめ)の代名詞とされているようです。

なるほど……言われてみれば、確かに美少女でもなかった気がするので、あっさり納得。以来「坂額御前≒男勝りで醜い女性」と認識していましたが、大人になってより調べていくと、実際は美女だったようです。

なのに、それがどうして醜女キャラに設定されてしまったのでしょうか。今回はそれを紹介したいと思います。

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「陵薗の妾」に相応しい美女

さて、坂額御前の活躍については鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡(あづまかがみ)』に詳しく、彼女たちが鎌倉時代初期の建仁元1201年に越後国(現:新潟県)で叛乱を起こし、捕らえられた時の記述があります。

【原文】
(前略)……凡(およ)そ勇力之丈夫(ゆうりきのじょうふ)を比べると雖(いえど)も、敢て對揚(たいよう)を耻(はず)る不可粧(べからざるのよそおい)也。
但し、顔色に於ては殆んど陵薗(りょうえん)の妾(しょう)に配す可(べ)しと云々。
※『吾妻鏡』建仁元年6月28日条。

【意訳】
(彼女の態度は)腕自慢の武者たちと比べても見劣りしない堂々としたものであったが、その容姿は陵薗の妾にも相応しい美しさであった……。

この「陵薗の妾」とは、古代中国において皇帝の墓陵に監禁し、その祖霊に奉仕させる刑罰およびその受刑者を指し、その対象は美女に限られたそうです(皇帝のほとんどは男性ですから、霊とは言え美女が良かったのでしょう)。

3ページ目 「哀れな囚われの美女」の代名詞に

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