「春はあけぼの……」で知られる随筆『枕草子(まくらのそうし)』の作者として日本の文学史に名を残した平安時代の女流歌人・清少納言(せい しょうなごん)。
「女性は愚かな方がよい」とされる価値観など鼻で笑い、あふれる才智と歯に衣着せぬ物言いで世の中をぶった斬った彼女は、非常に先進的な考え方の持ち主だったようです。
現代なら辛口コメンテーターとして活躍したかも知れませんが、そのあまりのズバズバぶりに敵も多く、ライバル・紫式部(むらさきしきぶ)をはじめとする識者は彼女をあまり快く思ってはいませんでした。
【原文】……(前略)そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよく侍らむ
※『紫式部日記』より。
【意訳】あぁ言うインテリ気取りで浮わついた人は、ロクな死に方しないでしょうよ!
賢すぎる女性は不幸な末路をたどる……そんな周囲の願望(ニーズ)?に応えてか、後世の説話集には、清少納言が晩年に落ちぶれるという(根も葉もない)エピソードが氾濫。
今回はそんな一つ、清少納言の危機一髪エピソードを紹介したいと思います。
兄・清監が暗殺される
時は平安、寛仁元1017年3月11日、京都は六角通富小路(現:京都市中京区)のある屋敷に賊徒20余名が乱入、そこの主人である「清監(せいげん)」こと清原太宰少監致信(きよはらのだざいしょうげん むねのぶ)が斬殺される事件が起こりました。
この清監は「三十六歌仙」の一人として有名な清原元輔(きよはらの もとすけ)の息子で、清少納言の兄に当たる人物。武人として名高い藤原保昌(ふじわらの やすまさ)の郎党として仕えていました。
事の発端は主君・保昌が国司として大和国(現:奈良県)を治めていた長和二1013年ごろ、国内の利権を巡って保昌の甥(妹婿の子)に当たる源頼親(みなもとの よりちか)と対立。
致信は保昌の命によって頼親の郎党・当麻右馬允為頼(たいまのうまのじょう ためより)を殺害して頼親の勢力を撃退。その怨恨が犯行の動機と推測されています。
「おのれ清監!かの恨み、晴らさでおくべきか……っ!」
そこで頼親は兄・源頼光(みなもとの らいこう)やその懐刀であった頼光四天王(渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、卜部季武)と協力し、保昌と別行動をとっていた致信が京都で休んでいたところを襲撃したのでした。
この時の軍勢は騎馬の者7、8名と徒歩の者10余名。そこに頼親&頼光+四天王ですから、最大30名弱の大所帯で屋敷を包囲したことになります。
流石の致信も多勢に無勢、決死の大立ち回りも虚しく、あわれ刀の錆とされてしまったのでした。