本能寺の変で織田信長が無念の死を遂げてから一年も経ずして天下統一を実現した男・「豊臣秀吉(とよとみひでよし)」。他の有能な織田家家臣がいたのにも関わらず、なぜ彼がひとり突出した動きを見せたのでしょうか。
それは鋭い戦術家で、果てなき天下統一の野望を持っていたからにほかありません。
秀吉の原動力となったのは“中国大返し”です。そのスピード行軍の理由として第一に挙げられるのが、即座に毛利と講和を結べたことでした。秀吉は、毛利の居城を攻めるのと同時に使者を送り、万が一の事態に備えるために講和を進めていたのでした。柴田勝家や滝川一益とはこの時点で大きな差がついていたのです。
「山崎の戦い」で明智光秀を討った秀吉が次に対峙したのは、織田家家臣時代に鬼柴田と恐れられていた柴田勝家でした。このときの戦いを「賤ケ岳の戦い」といいますが、この戦いにおいても秀吉は、人が考えつかないような奇抜な戦術を用いています。
それは、“中国大返し”をも凌ぐスピードで戦場へ駆けつけた“美濃大返し”と呼ばれる行軍術。
このとき、15000人の豊臣軍が、約52キロの距離をわずか5時間で駆け抜けたそうです。このスピードを可能としたのが、事前に食糧や武器を行軍の途中で補給できるように整備していたためでした。