最後の浮世絵師”血みまれ月岡芳年”は大奥と歌舞伎界の大事件「絵島生島事件」をこう斬った!

風信子

月岡芳年という浮世絵師をご存知ですか。1839年(天保10年)から1892年(明治25年)まで江戸幕末から明治前期にかけて名を馳せた浮世絵師です。

またの名を“血まみれ芳年”とも称され「無残絵」を描いた人物としても有名です。

月岡芳年が描いた「無残絵」とはどういうものかご紹介したいのですが・・・

血とかスプラッタに弱い方には、トラウマになりそうな絵です。相当ショッキングな絵なので、筆者自身も何回も見たくはないような絵です。見たくない方はご覧にならないで下さいね。

この絵で描かれている“直助権兵衛”は町医者の中島隆碩に奉公していましたが、薬代を着服したことがばれてしまい、それを責め立てられたので中島一家を惨殺し、金品を奪って逃走したという実話です。

権兵衛は中島の顔の皮を剥いでいるのです。何もここまで描かなくてもと思いますが、これは人間の所業であり、ここまで描いたからこそ人の心を奪う何かをこの浮世絵は持つのだとも思います。

『新撰東錦絵 生嶋新五郎之話』絵島生島事件について

月岡芳年の数ある浮世絵の中で、何故か筆者の心に引っかかる一枚の絵をご紹介します。

これは江戸城大奥と歌舞伎界を震撼させた大事件、『絵島生島事件』を題材にした『新撰東錦絵 生島新五郎之話』という浮世絵です。

事の起こりは正徳4年1月12日(1714年2月26日)。大奥の御年寄である絵島が、お仕えしている月光院の名代として、前将軍・徳川家宣の墓参りのために寛永寺・増上寺へ参詣したことが発端です。

参拝も済んだその帰り、絵島の一行は懇意にしていた呉服商に誘われて、江戸四座の一つである山村座で生島新五郎の芝居を観ます。芝居の後、絵島らは生島新五郎達を茶屋に招いて宴席を設けましたが、そのために大奥の門限に遅れてしまったのです。

絵島一行の大奥入口での「通せ、通さぬ」の騒ぎは江戸城内に知れ渡ることとなり、それを幕府が問題視し、評定所で審議されることとなりました。

しかし評定所の審議では門限に遅れたことよりも、何故か絵島と生島新五郎との密会が疑われたのです。生島新五郎は石抱えの拷問を受け、絵島はうつつ責め(白状するまで絶対に眠らせない)という拷問を受けました。生島新五郎はついに密会した旨を自白してしまいます。

結果、絵島は月光院の嘆願により島流しから軽減され“高遠藩内藤清枚”の元にて監禁。生島新五郎は三宅島に島流し。絵島の異母兄の旗本白井勝昌は武士の礼に則った切腹ではなく斬首、弟の豊島常慶は全財産を没収され追放となりました。

山村座座元の山村長太夫も伊豆大島への島流しとなって、山村座は廃座してしまいました。この事件が江戸四座を三座にしてしまった原因なのです。他に絵島の取り巻きであるおよそ1,500人に処罰が及んだと言われています。

実はこの事件、征夷大将軍・徳川家宣の正室である天英院と、側室である月光院の大奥内での対立が大きく関係しているようなのです。

徳川家宣の死後、側室である月光院の子「家継」が征夷大将軍となったため、江戸幕府内では月光院側の側用人の間部詮房、顧問格だった新井白石らが家継の後見人となり、幕府を牛耳るようになりました。それを苦々しく思っていた亡き徳川家宣の正室である天英院とその側近達が、絵島を“門限破り”に陥れ、この裁きを仕組んだのではないかという説が現在では定説となりつつあります。

3ページ目 月岡芳年が描いた「生島新五郎之話」

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