天皇陛下が来られるって!天皇のお出まし「行幸」は、地名さえ変える影響力大の一大イベント

みずめ

行幸といえば「行啓・御行・御幸」などさまざまな呼び名がありますが、要するに天皇陛下が皇居を離れて各地へお出ましになることです。

それは京都御所から春日大社など一日だけのこともあれば、幕末明治期の京都から江戸までなど大旅行のこともあり、特別大がかりな行幸には「伊勢行幸」「東京行幸」などと土地名を足して呼ばれることもあります。特に明治天皇は明治5年以降6回にわたって全国巡幸を行いました。

実は私たちの身の回りには、この行幸により地名が変わったり新しい名を与えられたりと、様々に影響していることが多くあるのです。今回はその一部をご紹介します。

幻の「東京城」。皇居になっても、東京は「都」じゃない?

行幸の影響が一番大きいのはやはり明治天皇の東京行幸。それまで一度も江戸にお出ましにならなかった天皇陛下が、各地を巡幸しながら江戸まで向かうのですから、天地のひっくり返る大騒ぎだったのも想像に難くありません。

明治と改元されたのは明治天皇が大坂に行幸した後。そして明治元年に江戸は東京に改称されました。天皇陛下は江戸ではなく、東京になってから足を踏み入れたのです。そのとき、江戸城は「東京城」と改名されましたが、わずか1年で「皇城」と改名されます。それは一度明治天皇が京都にお帰りになったためで、二度目の行幸のときにいよいよ東京城が仮住まいとなったため、「皇城」となり、そしてすぐ「宮城」と名前を変えました。

明治政府は京都などからの反発をおそれ混乱を避けるため、都を東京に移すことに明確に宣言しませんでした。そのことが尾を引いて、実は今でも首都の場所は法律で明文化されていないのです。

ですので、たびたび首都を関西に移すという議題が持ち上がるのは、今でも「天皇陛下は行幸で東京に立ち寄っているだけ」という風潮が残っているためではないかと思われます。

2ページ目 大涌谷は「地獄」だった

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