強者ならば支配し弱者ならば淘汰される戦国時代の中で特質すべき特徴を持った人物がいました。その人物の名前は小田氏治(おだ-うじはる)。何の特徴を持っていたのかというと、戦国一最弱と言ってもいいくらい戦下手なところでした。
今回は敗北に敗北を重ねた人生とそれでも諦めることのなかった氏治の信念を紹介したいと思います。
実は名門の出
氏治のいる小田家は関東を代表する8つの名家、関東八屋形の1つに当たり、室町時代では関東支配の一角を担っていました。しかし戦国時代になると佐竹家によって段々と衰退していきます。
それでも小田家を戦国大名にまで成長させた氏治の父、小田政治(おだ-まさはる)が所領拡大により最盛期を築きますが、天文17年(1548)に亡くなります。
そして氏治が父に代わって家督を継ぐようになると、時勢が一気に変わっていくのでした。
居城の落城を何度も見届ける…
父である政氏が亡くなると、それを契機に結城や佐竹と言った近隣の大名が攻めてきました。そして、氏治は弘治2年(1556)から永禄元年(1558)の3年間で居城である小田城を両者から3回も攻略されています。ここまでくると戦下手なのが露見してしまうほどです。
しかし、氏治の先祖代々の地を守る執着心は凄まじく、攻略されても必ず奪還する力は持っていました。
そんな力を慢心してしまったのか氏治は従属していた上杉謙信を裏切って返り討ちを受けたり、元亀3年(1572)の大晦日に連歌会をしたが故に、佐竹家の家臣・太田資正(おおた-すけまさ)に攻略されたりと氏治は合計で9回小田城を攻略されてしまいました。