「うつくしや 紅の色なる 梅の花 亜呼(あこ)が顔にも つけたくぞある」
5歳のときに菅原道真(すがわらのみちざね)が詠んだ和歌です。
菅原道真を天神様としてまつっている神社は全国でおよそ12,000社あるといわれていて、毎年多くの受験生が合格祈願に訪れます。菅原道真とはどういう人物だったのでしょうか。
優れた学者であるだけでなく、有能なビジネスマンだった
祖父の菅原清公(すがわらのきよとも)は空海(くうかい)や最澄(さいちょう)らと唐へ朝廷の要職につく人物を輩出しました。道真の祖父も父もそして845年生まれの道真も文章博士(もんじょうはかせ)という塾の教官となります。
学者の家系で中流の貴族であるにも関わらず異例の出世をしたことから道真をよく思わなかった人々もいたようですが、宇多天皇(うだてんのう)は道真を重用(ちょうよう)します。
藤原基経(ふじわらのもとつね)のおかげで天皇になった宇多天皇は基経に阿衡(あこう)という位を任命しました。ところが阿衡誉職であり権限がないという話になり、基経が政務を放棄してしまい国政が混乱しているところ、道真が事を収めたそうです。
宇多天皇が息子の醍醐天皇(だいごてんのう)へ天皇の位をゆずるときに菅原道真を右大臣にするように進言しました。899年、道真が55歳のときです。藤原家の力を弱めようとしたといわれています。
覇権争いで福岡県へ左遷させられ、すぐに亡くなった
右大臣になった道真ですが、醍醐天皇の弟で道真の娘婿であった斉世親王(ときよしんのう)を天皇にしようとしたと疑いをかけられ、901年太宰府(福岡県)へ左遷させられました。
道真が冤罪であると訴え、宇多上皇(うだじょうこう)も醍醐天皇に会いに行きましたが、醍醐天皇は合わなかったそうです。
藤原時平(ふじわらのときひら)と醍醐天皇が醍醐天皇の父、宇多上皇の政治力を排除するためだったのではないかという説もあります。
道真の息子も流刑になり、大宰府での暮らしは大変だったとか。左遷させられて2年後の903年、59歳で亡くなってしまいました。