戦乱渦巻く戦国の世を一気に変えてしまった武器、火縄銃。
普及されるや否や多くの戦国大名がこぞって使用したこの武器はとある鍛冶職人、八板金兵衛(やいたきんべえ)の娘、若狭(わかさ)の一大決心によって日本での大量生産が可能となりました。
今回は八板親子に関する火縄銃をめぐるエピソードをご紹介します。
火縄銃の国産化のために種子島へ
天文12年(1543)、ポルトガル人商人が持っていた火縄銃の威力に興味を持った種子島時尭(たねがしまときたか)はその場で2丁購入しました。そして、火縄銃の国産化に向けて動き出します。
時尭は火薬の調合を家臣に学ばせ、火縄銃の国内製造には美濃国にいた刀鍛冶、八板金兵衛にお願いすることにしました。
種子島に招待された金兵衛は火縄銃を解体するとすぐさま製造に取り掛かりました。種子島に招待されるくらい優秀な鍛冶である金兵衛は、火縄銃をほとんど複製させます。
しかし、筒底を塞ぐネジの部分だけが製造できず金兵衛は困り果てていました。当時の日本にはネジの観念や製造技術がなく、火縄銃の国内製造は困難を極めました。