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差別や偏見と闘い日米親善・世界平和に奔走した人生!笠井重治はかく語りき【前編】
昨今、特定の国籍や人種の方を対象とした「ヘイトスピーチ」が懸念されていますが、こうした人種・民族差別は今に始まったことではなく、かつて日本人もその標的として迫害されていた歴史がありました。[c…
明治時代、山梨県西島村(現:南巨摩郡身延町西嶋)で生まれた笠井重治(かさい じゅうじ)は、国際社会で活躍するべく17歳でアメリカに渡り、弁論術を学びますが、そこで黄色人種に対する差別や迫害を目の当たりにします。
そこで重治はシカゴ大学の卒業に際して人種差別の解消を訴える演説を行い、心あるアメリカ人の感動と共鳴を呼び起こしたのでした。
しかし、日本人をはじめとする黄色人種への差別心は根強く残っており、欧米列強の中で孤立しつつある日本を救おうと、重治は国際協調に駆けまわる日々を送るのでした。
国際協調に奔走する日々
それからハーハード大学の大学院で国際法と世界史を専攻した重治は、卒業した大正四1915年に外務相の広報機関であるパシフィック・プレスの次長に就任。3年半にわたってアメリカ人の日本に対する誤解や偏見を解消し、日米親善を促進するべく尽力しました。
他にも日米協会の設立(大正六1917年)や日米関係委員会の幹事就任(大正七1918年)など日米親善に重要な役割を果たし、ワシントンで開かれた第1回国際労働会議(大正八1919年)や海軍軍縮会議(大正十1921年)にも出席するなど、日米間を往復したそうです。
また、大正十一1922年にはイギリス・ドイツ・フランス・イタリアを歴訪、排日運動の緩和を訴えるなど、各国との協調に奔走しました。