前回に引き続き、江戸時代の漂流民、大黒屋光太夫の過酷なロシア漂流物語についてご紹介します。
10年に及ぶ過酷なサバイバル生活。江戸時代の漂流民・大黒屋光太夫の生涯 その1
「ロシアのラクスマンが通商を求め、漂流民・大黒屋光太夫を乗せて船で日本に来航した」。日本史の教科書でこんな1文を見た事があるかと思います。この大黒屋光太夫の漂流の物語は、実はこのような1文では…
アムチトカ島
光太夫一行が着いたのは、北太平洋アリューシャン列島の中のアムチトカ島という島でした。海獣の皮などを身に纏った先住民のアレウト人と出会った時は、殺されるかもしれないという危機感をも持った光太夫一行でしたが、それは杞憂であり、光太夫たちは言葉も通じないアレウト人と共に島で暮らす事になったのでした。
のちに分かった事でしたが、島にはラッコなどの海獣の毛皮をロシア人が多く滞在しており、交易という名目でアレウト人を隷属して島の資源を搾取していたのです。
未開のアムチトカ島の環境は決して整ったものではなく、食べ物も粗末で気温は日本と比べ物にならないほど寒く、服も動物の毛皮を着るしかないといった状態でした。漂着時点で16人だった神昌丸の乗組員はこの島で次々と命を落とし、9人にまで減ってしまいました。
「せっかく陸に上がったのにこのままでは全滅してしまう」
危機感を抱いた光太夫たちは、生き延びるために死に物狂いで島の言葉とロシア語を覚え、アレウト人とロシア人と交流を深めるのでした。