小賢しいヤツ…鬼平犯科帳の長谷川平蔵、実際は時代劇のイメージとはかけ離れていた!

拾丸

今や時代劇の代表作といっても過言ではない『鬼平犯科帳』。物語の主人公である長谷川平蔵は厳格で仕事もでき、部下や上司に頼りにされるエリートであると思います。

しかし、実際の平蔵は『鬼平犯科帳』のイメージとはかけ離れた存在でした。

今回は史実の平蔵に関することを紹介したいと思います。

そもそも長谷川平蔵って何をした人?

長谷川平蔵こと長谷川平蔵宣以(のぶため)は延享2年(1745)に産まれました。

長谷川家は藤原秀郷の流れを組む名家で戦国時代は今川家から徳川家へと主君を変えた一族でした。

平蔵の若い頃は悪友と遊郭通いをし続け、幼名の銕三郎(てつさぶろう)にちなんで「本所の銕」と呼ばれた不良でした。さらに父である長谷川宣雄が貯めていた財産を全て使い果たした放蕩息子でもありました。

そんな平蔵も父の死と共にこれまでの行いを改めます。そして、安永3年(1774)の31歳に将軍世継ぎの警護役に任命されます。

そこから順当に出世していき天明7年(1787)の42歳には火付盗賊改方の長官に任命されます。

さらにその2年後の寛政元年(1789)、松平定信が行った寛政の改革における経済政策の一つである人足寄場(にんそくよせば)の設置を立案しました。人足寄場は犯罪者の更生施設で歴史の教科書でちらっと出てきた程度なので覚えている方はあまりいないかもしれません。

同年には人足寄場の他に関東を中心に活動した大盗賊、神稲小僧(しんとうこぞう)の一味を捕まえたことでその名を知らしめます。

他にも江戸中を荒らした凶悪強盗団の頭を捕まえるなどの活躍から「本所の平蔵さま」や「今大岡」と呼ばれ親しまれていました。

3ページ目 平蔵が長官を務めた火付盗賊改方とは?

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