最近、ニュースなどでも盛んに言及されている「パワハラ」。権力を恃んで立場の弱い相手が逆らえないのをよいことに、理不尽な振舞いに及ぶことを言います。
(※言葉自体はともかく、行為自体は大昔からあったことは言うまでもありません)
その怨みは時として深刻な事態に発展してしまうことも少なくありませんが、今回はとあるパワハラと、そのリベンジにまつわるエピソードを紹介したいと思います。
以仁王の挙兵・頼政の覚悟
時は平安・治承四1180年5月26日。後白河法皇の第三皇子である以仁王(もちひとおう)を擁立して源頼政(みなもとの よりまさ)が「平家追討」の大義を掲げて挙兵。
後世に言う「治承・寿永の乱(いわゆる源平合戦)」の火蓋が切って落とされたのでした。
……が、計画が事前にバレてしまったり、根回しが上手くいかずに兵力が足りなかったりなど、けっこうグダグダ感が目立ち、勝算がかなり薄かったことは頼政自身も承知だったと思われます。
しかし、それでも頼政には「戦わねばならぬ」動機がありました。