日本は江戸時代、鎖国したとはいえ海外と全くの没交渉だったわけではありません。海外からの漂流船はたびたび来ていましたし、本土から漂流民がでることもありました。
幕末期に土佐で漂流し、アメリカへ渡ったジョン・万次郎や浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)のお話はよく知られていますが、雪深い越後の地にもアメリカへ渡った漂流民のお話が残されています。その名を、伊之助(または勇之助)といいます。
そう、これは漂流民・伊之助のお話なのです。
北前船の乗船中に遭難
1832(天保3)年、越後国岩船郡板貝いたがい村で伊之助は産まれました。伊之助は、1852(嘉永5)年、19歳のときに北前船「八幡丸やはたまる」の乗員として蝦夷えぞへ向かっていました。
その帰路のことです。急な暴風のため船が松前沖で遭難してしまったのです。乗組員たちははじめ、積荷の塩鱒ますや雨水などを口にすることで命を繋つないでいましたが、次第に体力の消耗と飢餓により次々に死んでしまい、とうとう生存者は伊之助一人となってしまいました。
滞米中に浜田彦蔵と出会う
漂流してから9か月ほどたった頃、半死半生の状態だった伊之助は、たまたま付近を通過中だったアメリカの商船エマ・パッカー号に助けらました。
それから約1年間、彼はストンシッペという船の番人として生活することになります。この間、伊之助は浜田彦蔵と会っています。彦蔵の自伝には、伊之助のことが詳細に書かれており、それによれば、伊之助は脇差を身に付け、身のこなしも丁寧で役人風に見えたこと、日本語で話しかけると大変驚き、助けを乞うたことなどが記されています。
また、1853年10月8日付けのアメリカの絵入り新聞「イラストレイテッド・ニュース」に「八幡丸」や伊之助に関する記事が掲載されました。