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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第30話
■文政八年 凩の冬
国芳の棲む裏長屋の立て付けの悪い腰高障子が、ばきっと嫌な音を立てて開いた。
「畜生、今日は風が強えな。凩(こがらし)が渦を巻いてやがらア」
腕を擦り擦り、土間に踏み込んで来たのは大きな襟巻きをざっくり巻いた渓斎英泉である。吉原遊廓での大勝負以来、英泉と国芳はこうして度々交流を持つようになった。
「おい、《ふらふら》よ」
英泉は、得意な分野を決めずにふらふら好きなように描いている国芳の事を《ふらふら》などと呼ぶ。
「へい!?」
国芳は集中して何か描いていたらしく、四畳半のど真ん中で床に這いつくばったまま顔だけ上げた。その顔を見るなり英泉はぷっと吹いた。
「どうされやした、師匠」
英泉は自分の鼻を指して、
「鼻の頭に、墨。・・・・・・」
あ、失礼、と国芳は手の甲でぐしっと鼻を拭い、こっちが気恥ずかしくなるような爽やかな照れ笑いをした。
「いやね、人に会わせようと思って。どうせ暇だろう」
「暇っちゃア暇ですけど、人ですかえ?嫌だなあ」
人見知りの国芳は眉根を寄せた。
「安心しやがれ、人っつうより化け物だ」
「もっと嫌だよ」
恐々とする国芳を、英泉は急かした。
「ホラ、早く出るぜ」
「そこまでわっちに会わせてえ奴たア、いってえ誰なんです」
「もう一人の、《ふらふら》さ」
ケケケッといつもの奇妙な笑いを英泉はこぼした。
「《ふらふら》?」
「ああ。あーたみてえに、どれが得意ってのを決めねえでふらふらしている絵描きを、あーしゃアもう一人知ってるのさ」
「その人に、今から?」
「ああ。会わせてやる。だから酢の蒟蒻の言わずに付いといで」
英泉は足元に落ちていた国芳の絵を何枚か抱えこみながら言った。
国芳は褞袍一枚に三尺帯の出で立ちで、英泉に付いて冬空の下に出た。
冷えきった空気を吸うと鼻がつうんとして、いよいよ冬になりやがったナと国芳は思った。
この季節らしい澄み渡るほどの晴天である。
一歩足を踏み出した途端、下からわあっと吹き上げる旋風で周りの音が全て掻き消され、一種の無音状態が生まれた。その中で、舞い上がった無数の金色の枯葉が陽光に照り輝きながら、空からきらきら降ってきた。
(金色の、雪だ。・・・・・・)
国芳は、思った。
その瞬間、この世は風と国芳と英泉と、ただ三人だけになったようにも感じられた。
(おみつにも、この景色を分けてやりてエな)。・・・・・・
いつかみつを身請けして、そうした暁(あかつき)にはこの美しい凩の冬を二人揃って歩くだろう。
そういう日の事を想像すると、胸の奥が火吹き竹で吹かれたように温かくなった。
「冷えるなア」
隣で英泉が懐に手を入れたのに対して、国芳は口元を緩めた。
「わっちゃアこの褞袍(どてら)が温ッたかくて、ちいと汗ばみますよ」
「あーた、先達てもそれじゃアなかったかい」
国芳の格子柄の褞袍を指して、英泉は嫌味ったらしく言った。
「秋と冬と春はこれ一枚でさア」
「残るのア夏だけじゃねえか。別のを一枚買ってやろう。そうだな、あーたにゃア気味の悪い地獄絵図の褞袍なんか良さそうだ」
ケケケッとけたたましく笑ったのは国芳の方だった。
「そいつア面白え。是非ともお願えしてえところです」・・・・・・
・・・・・・