まるで学級崩壊!?鎌倉幕府のユルすぎる法律、そしてフリーダムな住民たち

現代に生きる私たちにとって、法律とはシステマティックに整備された「ある種の絶対正義」であり、ひとたび破ろうものなら社会的に抹殺されかねない。時にそんな威力さえ持っている法律ですが、その感覚が根づいたのは、近世以降(江戸時代~)と言われています。

では、それ以前はどんな感じだったのでしょうか。今回は鎌倉幕府の法体制を例に、中世の法律感覚を紹介したいと思います。

けっこうグダグダ?!鎌倉幕府の法体制

鎌倉時代の法律と言えば、貞永元(1232)年に制定された「御成敗式目(貞永式目)」が有名ですが、その条文はたったの51か条。

基本的な事柄しか定めていないため、こまごました実務については、必要に応じて「追加法」が出されました。鎌倉時代の法律はそのほとんどがこの「追加法」なのですが、鎌倉時代を通してこれらすべてをひとまとめにした史料は、残念ながら現存していません。

部分的には鎌倉時代の末期ごろから編纂された『追加集』と呼ばれる複数の法令集に記録されたり、鎌倉幕府の公的記録である『吾妻鏡』の中に「こういう内容の法令が出た」などの事実のみが記録されたりしましたが、条文が残っていない法令も少なくないようです。

と言うことは、当の鎌倉幕府でさえも自分たちの出した法律をすべて把握できていなかった(末期になって、慌ててまとめ出した)可能性があります。

恐らく、現場で個々の引継ぎとかはあったのでしょうが、それを鎌倉幕府という単位では、誰もまとめようとしなかったのかも知れません。長い年月が経っているとは言え、自分で出したルールを自分で覚えて(記録して)いないって、ちょっと驚きですよね。

2ページ目 まるで学級崩壊!?アバウトな行政区分&フリーダムな住民たち

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