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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第10話
■文政七年 夏と、秋(3)
佐吉と約束の月見の日が訪れた。
画像:国芳「東都名所 新吉原」ボストン美術館蔵
鏡を覗くみつは薬指で目の端に紅をほんの置き、紅猪口を鏡台にことりと伏せた。彼女が見つめる世の中から色が消えて、すでに十年も経つ。
化粧も慣れたもので、白粉のむらもなく、額と鼻筋に濃く白粉を塗るのも目尻に紅をぼかすのも上手い。ただ、時が経つにつれ、記憶の中の色がどんどん褪せてきている。当たり前に知っていたものが薄れていく恐怖は、例えようもなかった。
紅という色がどんな色だったか、ただもう一度でいいから見てみたい。胸の底に長らく蓋をしていた思いが国芳に出会ってからというものふつふつと湧き上がってくるようになり、ふとした瞬間に心に爪を立てる。
化粧を終えたみつは、この日のために佐吉が用意した着物に着替えた。佐吉が揃えた髪飾りと着物は、花魁がまとうにしては落ち着いたものであった。しかしひとつひとつは大変高価なもので、笄(こうがい)は本物の鼈甲であったし、簪には銀に珊瑚(さんご)の玉が付いていた。着物の方には蜻蛉(かげろう)と蔦の模様が入っており、地の色はみつには分からないが濃い染めが裾に向かうにつれ淡い色に変化する見事な染めである。
帯は異国の珍しい草花を染め抜いた一丈二尺ほどの長い更紗であった。その上に、裾に富貴綿をたっぷり入れた豪奢な仕掛けを羽織る。新造の美のるや番頭新造が着付けを手伝い、禿までもが仕掛けの裾に気を配ったりしながら、皆でどこから見ても美しい花魁を造り上げてゆく。
階下では、新造たちがすでに半籬(はんまがき)の奥に並んでそれぞれ三味線の調子をととのえ、若い衆たちは神棚の燈明から火を移して張見世の雪洞(ぼんぼり)を灯したり、客が段梯子の下の下足箱に使う札を集めたりと慌ただしく夜見世の支度をしている。