【小説】国芳になる日まで 第3話はこちら
【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第3話
文政七年 正月 (4)
男が正月の凧売りを始めたのは十七の時だ。今春二十八だから、もう十年以上も続けている事になる。彼が手ずから時間をかけて色付けをした極彩色の凧は毎年評判も良く、人につまらない言われたのは初めてだった。
男は少しむっとして、
「なんで、つまらねえと思うものを毎年見に来んだよ」
「なんでだろう。兄さんの絵はつまらないけれど、兄さんの凧を受け取る禿(かむろ)たちの笑顔がいつも羨ましくて仕方なかった」
「買ってもらえなかったのか」
うん、と女は頷いた。
こくんと素直な仕草が、男の胸をくすぐった。
「一つ、やろうか」
思わずそう言ってから、しまったと思った。相手がつまらないと言うものを偉そうに一つやろうなどという野暮があるだろうか。しかし、
「本当?」
女は予想外に喜び、銀花が朝日にきらめくような目をした。
男はほっとして、
「好きなの取っていきな。壊れてるの以外で」
女は早速小さな身を屈めて籠の中を探し、
「あっ!これ、九紋龍史進(くもんりゅうししん)だ」
上ずった声を上げた。九紋龍史進とは、近年人気の「水滸伝(すいこでん)」という唐の歴史伝奇小説に登場する豪傑である。背中一面に九頭の龍の刺青を背負っているから九紋龍という。若い力にみなぎり仁義に厚い史進は、百八人いる豪傑の中でも一番江戸ッ子に人気がある。
「これにする」
女は嬉しそうに紙を抱え込んだ。
「良いのか。どうせつまらねえ絵だぜ」
「つまんなくていい」
「そうかよ」
「あたし、全然、外に出られなかったんだ」、
女は何かを決心したように吐露した。
「物心ついた時には、引っ込み禿(かむろ)に決まっていたから」。
引っ込み禿というのは、将来看板花魁にするために置屋の奥に引っ込めて大切に育てられる上玉の禿である。
それを聞いて、女の肌膚(はだ)が抜けるように白いのも、素人(じもの)には感じたことのない不思議な気韻を感じるのも、合点がいった。
「それじゃあめえは、花魁かえ」
男が驚いた表情をすると、これでもね、と女は微笑(わら)った。
「今は割かし自由だけれど、一人前になるまでは置屋の奥の間で毎日休む暇もなく芸事を叩き込まれて、飯の時に皆から外の噂を聞くのが一番楽しみだった。その時からあんたの事はよく噂になってた」
「なんて」
「『あの男の後ろには、子どもの花が咲く』って。あたしも物陰なんかから見ていないで、あんたの後に咲く花になりたかったよ」
そう言って淋しそうに足もとの石ころを蹴った女が、男の目の前で突然、緋色のべべを着た哀しい少女に変わった。