アニメ化決定!話題作「アンゴルモア」に登場する北条時宗ってどんな人?人の巻

やたろう

前回「北条時宗ってどんな人?地の巻」では、内部闘争と言う試練を経て幕府をまとめた北条時宗が、文永の役を切り抜けたことまでをお話しました。本項では、その人生を賭けた最後の戦いを紹介致します。

再び元が攻めてくる!時宗・起死回生の策は…?

文永の役があった翌年、元からは降参勧告を携えた使者が来ますが、時宗は彼らを処刑してしまいました。これは人気者であるにも関わらず、時宗が批判される一因となっています。勧告を聞き入れずに使者を処刑したその理由は、元に屈せずに戦うと示す行為だったとも、使者がスパイであったため情報漏洩を防いだから、だとも言われています。

また、時宗は内部を固めることにも余念がなく、各地に武士団を配備したり、防塁を作るなどして再度の蒙古襲来に備えました。実際、元軍は日本征服を諦めておらず、弘安4(1281)年に軍隊を日本に派兵します。これが弘安の役といわれる、2度目の元寇です。この時、南宋は1279年にすでに滅亡していたため、元軍は朝鮮半島だけでなく華南からも日本を攻める計画でした。

文永の役以上の大軍が押し寄せ、時宗と鎌倉幕府も風前の灯火となりかけますが、このピンチに彼らの下準備が功を奏します。先に築かれていた防塁によって元軍は上陸を阻まれ、夏場であった事もあって食料の腐敗や疫病の蔓延で元軍の士気は鈍りました。更に、7月30日の夜に襲った台風によって軍船の多くが沈没して、元軍は壊滅的打撃を受けたのです。

二度も暴風、いわゆる神風に助けられた時宗は、まさに強運の持ち主と言えましたが、運のみにあらず、粘り強く戦った御家人たち、彼らを指揮した彼の卓越したリーダーシップ、こうした要因が重なってこその勝利であったと言えるでしょう。

4ページ目 弘安の役後も続く時宗の激務

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