百人一首のピュアな恋の歌は、実は不遇の生涯を送った廃帝・崇徳院の執念の歌?

writer41

悲劇の廃帝が残した、ピュアな「恋の歌」

「百人一首」には多数の「恋愛」を歌った歌が取り上げられ、その中に、不遇の生涯を送った廃帝・崇徳院の歌があります。

瀬を早み 岩にせかるる 瀧川の われてもすえに あはむとぞ思ふ
(岩にせき止められた川の瀬の急流が、2つに別れても再び合流して1つになるように、愛しいあなたと今は離ればなれになっていて会えなくても、いつか必ず再会しようと思う)

遠距離恋愛中の彼女が彼氏からこんな言葉を贈られたら、さぞかし感激することでしょうね!自分の舌を噛み切った血で呪いの言葉を記し、爪も髪も伸ばし続けて妖怪のような姿で亡くなった廃帝が詠んだとはとても思えない、実に情熱的でピュアな恋の歌です。

しかし、この歌の作者のバックボーンを知ると、これは本当に「恋の歌」だったのか?という疑問が浮かんできます。

本当は恋の歌ではなく、京への執念の歌?

崇徳院は、大変な不遇の生涯を送った天皇でした。

父である鳥羽上皇から疎んじられ、早くに譲位を迫られ、後に反乱を起こすも敗れて讃岐へ流され、二度と京の地を踏むことなく亡くなった天皇です。

妖怪伝説まで?「讃岐廃帝」とも呼ばれ、不遇のうちに亡くなった天皇・崇徳院とは?

崇徳院とはどんな天皇?平清盛が実権を握る直前の時代に、不遇の天皇がいました。「新院」「讃岐院」「讃岐廃帝」などとも呼ばれた、崇徳院です。鳥羽天皇と中宮璋子(待賢門院)の第一皇子として元永2…

崇徳院がそこまで父から疎まれた理由は、彼が実は鳥羽上皇の子ではなく、鳥羽上皇の祖父である白河法皇と、鳥羽上皇の中宮・璋子(後の待賢門院)の間にできた不倫の子だったからという説があるのですが、こういった背景をふまえて冒頭の歌を再度見ると、この歌が単なる恋の歌ではなく

「岩にせき止められた川の瀬の急流が、2つに別れても再び合流して1つになるように、京の地から私は不本意にも流されて対立する勢力に妨げられて帰ることができないが、いつか必ず戻って返り咲いてやる!」

という、讃岐へ流された崇徳院の強い執念が込められた歌とも解釈することができます。実際に、この説を唱える研究者も存在するほどです。

2ページ目 現在の崇徳院は…?

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