「我こそ勝家なり!」主君・柴田勝家を救うため名を偽り討死した若武者・毛受勝照の忠義【前編】

湯本泰隆

戦国時代。名を上げ、領土を広げることに夢中な武士たちの中で、ただ一人、主君に真心をつくした若者がいました。

その名は毛受勝照(めんじゅ かつてる)。

わずか25年の短い人生でしたが、彼の生き方は、今も人々の心に響きます。

勝照は1558(永禄元)年、尾張の国にあるのどかな稲葉村(現在の愛知県尾張旭市)で生まれました。父の毛受照昌(てるまさ)は、もとは水野氏の一族でしたが、この地に移り住み、田畑を耕し、村を支える人でした。

「毛受」という姓も、この土地に根付く中で名乗り始めたと言われています。つまり勝照は、武士の家に生まれたのではなく、農民の子として育ったのです。

12歳で「小姓」になる

そんな村で育った少年は、12歳のとき、大きな決意をします。それは、名将・柴田勝家(しばた かついえ)に仕えることでした。勝照が任されたのは「小姓」という役目。

これは単なる召使いではありません。主君の身の回りの世話をしつつ、戦場にも同行し、秘密の命令を伝えたり、重要な情報を預かる、若い側近のような存在です。

信頼されれば、主君のそばで意見を言い、共に行動できます。当時、小姓は、若者にとって出世のチャンスでもあったのです。勝照は真面目で優しく、いつも落ち着いていました。

やがて彼は、小姓のリーダー「小姓頭」になり、最終的には一万石の領地を任されるほどに成長します。

農村の子が、主君から信頼され、家臣をまとめ、戦にも出る。それは彼の普段の行いと誠実さの表れでした。

3ページ目 殿の旗は、この手で取り戻す!

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