信長の居城に関する三つの疑問
織田信長の居城について調べていくと、いくつかの疑問が湧いてきます。
①彼はなぜ城から城へと頻繁に引っ越して居城を変えたのか。
②あまり栄えていない安土に城を構えたのはなぜか。
③どうして京に城を構えなかったのか。
今回は、この三つの疑問を前編・後編に分けて解いてみたいと思います。
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織田家のもともとの領地は尾張の東部であり、信長が最初に居城としたのは那古野城でした。信長の父・信秀が今川氏豊から奪い取った城で、現在の名古屋城の二の丸あたりにあったといわれています。
信長は1534年にここで生まれています(尾張勝幡城で生まれたとする説もあります)。
並の大名なら生まれた土地で生涯を過ごすことが多いわけですが、信長はそうではありませんでした。次々と引っ越していくのです。
いわば信長は「引っ越し魔」でもあったわけです。まずは、その経緯を見ていきましょう。
「引っ越し魔」織田信長
まず、彼は青年期までを那古野城で過ごした後、1555年に清洲城へ本拠地を移します。それにともない、那古野城は廃城となりました。
しかし清洲にいたのも10年間ほどで、尾張を統一して隣国の美濃へ攻め入る前の1563年には小牧山城に移りました。
小牧山城は、新しく平野の中の丘に築いた城でしたが、城下町が建設されます。そして信長と家臣だけでなく、商人や職人も清洲から移転してきました。
この小牧山を本拠地として、信長は美濃の斎藤氏を攻めました。
ところが、山頂にある美濃の稲葉山城は難攻不落の城として知られ、信長軍も攻めあぐねました。ここでご存じの通り木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の活躍もあって、ようやく1567年に稲葉山城は落城しています。
すると、信長は今度はその稲葉山城を居城とし、名を「岐阜」と改めます。
そして、最後が安土城です。琵琶湖の湖畔に築城したものでこれは1576年に完成しました。
信長はこのように居城を次々と変えていった「引っ越し魔」のようなところがあったわけですが、これはなぜでしょう。