戦国時代から江戸時代にかけて、日本各地に数多くの城郭が造営されましたが、その中で「名城」とされる城郭をプロデュースしたのが藤堂高虎(とうどうたかとら)です。
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藤堂高虎が手掛けた城郭は、今でも城跡として遺っているものも多く、その名残を感じられるところに「城好き」の間では、彼が「築城の名手」として知られているのではないでしょうか?
最初に藤堂高虎について、少々触れてみようと思います。
藤堂高虎について
出生地は近江国犬上郡藤堂村(滋賀県犬上郡甲良町)で、藤堂家は先祖代々、当地の小領主でしたが戦国時代に没落し帰農しています。元服すると近江国の領主・浅井長政に仕えるも、小谷城の戦いで織田信長に敗れてしまいます。
やがて近江国を去り織田信長に仕えた時期もありますが、程なく浪人となりました。その後は豊臣秀長を始めとし主君を数回変え、最終的には徳川家康に仕えています。
主君に忠義を尽くすことが美徳とされた当時、このような藤堂高虎の生き方は決して褒められるようなものではなかったでしょう。それが、これまで藤堂高虎の評価が数々の城を手掛けた実績ほどのものではなかったことの要因と思われます。
しかしながら、その緻密な築城術、その規模の大きさ、理にかなった縄張り…それらを通して、「藤堂高虎」という武将がいかに「名将」であったのか、江戸城の構造から高虎の能力を見てみましょう。