藤原道長には6人の娘と7人の息子がいました。うち6人(娘2人と息子4人)は側室の源明子(めいし/あきらけいこ)が生んだ子です。
後の7人中6人(娘4人と息子2人)は正室の源倫子(りんし/みちこ、ともこ)が、残る息子1人は源重光女(しげみつ娘)が生みました。
今回は源明子が生んだ道長の六男・藤原長家(ながいえ)を紹介。彼が歩んだ生涯を、たどってみたいと思います。
13歳で殿上人、18歳で公卿に
藤原長家が誕生したのは寛弘2年(1005年)8月20日。父の道長は40歳、母の源明子はそれより若干上でした。かなりの高齢出産ですね。
幼名は小若(こわか)、寛仁元年(1017年)に13歳で元服します。元服と時同じく従五位上に叙せられ、内裏への昇殿を許されました。
同年に侍従(じじゅう)、次いで右近衛少将(うこのゑのしょうしょう)に任じられます。
翌寛仁2年(1018年)には従四位上・右近衛中将(~ちゅうじょう)、更に寛仁3年(1019年)には正四位下と昇りました。
そして治安2年(1022年)には従三位に叙せられ、18歳で公卿に列したのです。
30年以上にわたる鬱屈の末……
公卿となった長家は、その後も順調に出世。治安3年(1023年)には正三位・権中納言(ごんのちゅうなごん)となります。
治安4年(1024年)には正二位まで昇り、父の道長が薨去した翌万寿5年(1028年)には、権大納言(ごんのだいなごん)まで昇進しました。
……が、長家の出世はここまで。後は兄たち(異母兄の藤原頼通・藤原教通、同母兄の藤原頼宗・藤原能信)が永く健在であったことから上がつっかえており、先に進めなかったのです。
そのまま30年以上にわたりくすぶり続けた康平3年(1060年)、甥の藤原師実(もろざね。嫡長兄・頼通の子)が19歳で内大臣となりました。
内大臣は大納言及び権大納言の上、長家は軽く飛びこされてしまったのです。
「もう嫌だ!やってられるか!」
生まれの格差に絶望したのか、怒り狂った長家は自身の檳榔車(びろうげのくるま)を焼き払ってしまいました。
檳榔車とは檳榔樹(ビンロウ)の木材を白く晒して組んだ牛車で、貴人や公卿にのみ許されたものです。
公卿の象徴とも言える檳榔車を焼き払った暴挙に、長家の鬱屈した怒りを感じずにはいられません。
そして還暦を迎えた康平7年(1064年)に病のため出家、同年11月9日に薨去したのでした。