あの伊能忠敬の師匠!江戸時代、日本の暦を作り替えた天文学者・高橋至時の偉大な功績【前編】

湯本泰隆

高校生の日本史の教科書でも、名前や業績が1行くらいしか書かれていない高橋至時(たかはしよしとき)。実は、従来日本に伝わっていた暦を大きく改変し、より精度の高いものにしたという功績があります。彼の作った暦は、「寛政暦(かんせいれき)」と呼ばれ、その後の暦づくりにも、大きな影響を与えました。

高橋至時は、果たしてどのような人物だったのでしょうか。

高橋至時の生い立ち

高橋至時は1764年に江戸で生まれました。幼少の頃から数学が得意で、特に天文学と算数がすごく上手でした。やがて、その才能が幕府の高官らに認められ、幕府の天文方(てんもんかた)という星を観測して暦を作る仕事に選ばれました。当時の日本で、天文方は、農業や人々の生活にとって、とても大切な役割でした。

至時は若いころから西洋の科学に興味を持ち、特に天文学に強い関心を持っていました。当時の日本は外国とあまり交流がなく、情報も少なかったのですが、彼は独学でオランダ語を学び、西洋の天文学の本で勉強しました。その結果、幕府からの信頼も厚くなり、暦を改良する仕事を任されることになりました。

寛政暦の制定

それまで日本では、中国から伝わった「宣明暦(せんみょうれき)」が使われていましたが、星の動きと暦がずれてきて、農作物を育てる時期を間違えるなどの問題が起きていました。このズレは、人々の生活にも大きな影響を与えていました。

高橋至時は、この問題を解決するためにたくさんの星を観測し、そのデータをもとに新しい暦を作りました。これを、当時の元号をとって、「寛政暦(かんせいれき)」と呼びます。

寛政暦は、作成にあたって西洋の理論を取り入れたという点において、当時としては画期的なものでした。例えば、地球が太陽の周りを回っている「地動説」や、西洋の星の位置を計算する方法など、当時としては最新鋭の天文学の知識を取り入れたのです。これにより、従来よりも高い精度で、より正確に天体を観測できるようになり、その結果、寛政暦の精度も大きく向上しました。

3ページ目 至時の活動は後世の天文学者にとって重要な基盤に

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