将軍就任時、「我は生まれながらの将軍である」と言い放った徳川家光(とくがわいえみつ)。
しかし、家光は生まれた時に両親より冷遇されてしまい、そんな家光を見かねて手を差し伸べたのは春日局(かすがの-つぼね)でした。
今回は家光が実の母のように慕い、家光政権下で活躍した春日局と家光とのエピソードをご紹介します。
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幼少時代の家光は病気がちだった
家光は慶長9年(1604)に徳川秀忠とお江の元で生まれます。祖父の家康と同じ幼名である竹千代を与えられた家光は徳川家の世継ぎとして扱われていました。
しかし、幼少の頃の家光は病弱で言葉がどもってしまう吃音症を持っていました。その上、容姿があまりよくなかったため、両親からは疎まれる始末。
そんな中慶長11年(1606)に家光の弟、徳川忠長(とくがわ-ただなが)が生まれます。
忠長は家光と違って利発的で容姿端麗で、お江の叔父・織田信長に似た顔立ちだったので、両親の愛は忠長に注がれてしまいました。
そして、その愛は後継者決めにも影響を及ぼし、いずれは忠長が世継ぎになるのではないかと江戸城中で噂されるようになりました。
家光を育てていた乳母の春日局は、このような事態となったことを憂い自殺しようとした家光を諫め、とある行動を起こします。