豊臣家と徳川家で板挟み状態!豊臣秀吉に見出された名将・片桐且元の波乱に満ちた人生

雲川ゆず

日本史を代表する人物といえば、戦国の三英傑と呼ばれる織田信長・豊臣秀吉・徳川家康ではないでしょうか。そのうち、豊臣秀吉と徳川家康に大きく関わった人物の一人に片桐且元(かたぎりかつもと)がいます。

名将として知られ、戦争回避などに尽力した彼ですが、その人生は波乱に満ちていました。

片桐且元の誕生、そして若年期

片桐且元は、1556年浅井氏配下の片桐直貞(かたぎりなおさだ)の長男として生まれました。小谷城の戦いをきっかけとして、浅井氏が滅亡すると、且元は豊臣秀吉(当時、羽柴秀吉)に仕官するようになります。

賤ヶ岳七本槍の一人として名をはせる

1583年、信長の後継者争いに端を発した「賤ヶ岳の戦い」が起きます。秀吉と柴田勝家の戦いで、秀吉が勝利。この戦いで特に活躍を見せた7人を「賤ヶ岳七本槍」といいますが、
片桐且元もそのうちの一人に数えられています。

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行政面でも強みを発揮

豊臣政権では、片桐且元は武将としてだけでなく行政面でも才能を発揮しました。京都の「方広寺」に大仏殿を建設することになった際も、且元は普請奉行(建設作業を監督する役割)に選ばれています。また、検地にも携わりました。

3ページ目 「方広寺鐘銘事件」では豊臣家と徳川家の戦争回避に奔走

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